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2024.3.28 題詠「入学」・鑑賞「蕗の薹」
投稿日 | : 2024/03/22(Fri) 09:25 |
投稿者 | : ひさお |
参照先 | : |
投稿日 2024.3.22(金)
投稿者 ひさお
参照先
2024.3.28(木)題詠「入学」・鑑賞「蕗の薹」
題詠「入学」
鑑賞「蕗の薹」
出題者 たかしさん
鑑賞「蕗の薹」
1.被災地の能登の少女の手に二つ雪解けの野の蕗の薹とぞ ひらら
2.善悪の彼岸にあそぶ気まぐれな神より蕗の薹を十二個 ウプラ
3.墓参り母の畦道に蕗の薹摘む丸き背愛しき形 さらら
4.蕗の薹はみどりの衣の修行僧みぞれに埋まり霰に打たれ たかし
5.蕗の薹を日頃の暮らしに認めしはどの地たりしか 当地では見ず ひさお
Re: 2024.3.28 題詠「入学」・鑑賞「蕗の薹」
投稿日 | : 2024/04/01(Mon) 07:20 |
投稿者 | : たかし |
参照先 | : |
ひさおさんの歌
5.蕗の薹を日頃の暮らしに認めしはどの地たりしか 当地では見ず
ひさおさんのコメント、そしてウプラさんのコメントを読んで、私は読み間違いをしていたことに気が付きました。
「日頃の暮らしに認め」るのはひさおさん自身であった。
つまり日常の生活範囲のなかで蕗の薹を見る(目撃する)・・・ことであった。
私は「認めしは」を読み違いをしていて、偉そうに自説を展開しました。お恥ずかしい。
Re: 2024.3.28 題詠「入学」・鑑賞「蕗の薹」
投稿日 | : 2024/03/31(Sun) 22:39 |
投稿者 | : ウプラ |
参照先 | : |
遅くなって申し訳ありません!
1.被災地の能登の少女の手に二つ雪解けの野の蕗の薹とぞ ひらら
柔らかな若草の中に、一際明るいみどりの蕗の薹。「雪解けの野の蕗の薹」に希望を託す。
たかしさんの言う通り、「とぞ」のない方が直接的で生き生きする。
2.善悪の彼岸にあそぶ気まぐれな神より蕗の薹を十二個 ウプラ
3.墓参り母の畦道に蕗の薹摘む丸き背愛しき形 さらら
いくつになっても母は恋しいもの。墓参りをして、その丸い背中を鮮やかに思い出している。
4.蕗の薹はみどりのしき衣の修行僧みぞれに埋まり霰に打たれ たかし
まだまだみぞれも霰も降る早春に蕗の薹は芽を出す。その蕗の薹を修行僧にたとえたところが妙。蕗の薹の浅い緑と修行僧のストイックな感じがよくマッチしている。
5.蕗の薹を日頃の暮らしに認めしはどの地たりしか 当地では見ず ひさお
「日常のところどころに蕗の薹を見ることがあったが、さて、あれはどの地方であっただろうか。今、この辺りではみることはない。」記憶の微妙なところを切り取った。「どの地たりしか」?「どの地なりしか」?
Re: 2024.3.28 題詠「入学」・鑑賞「蕗の薹」
投稿日 | : 2024/03/29(Fri) 20:56 |
投稿者 | : ひさお |
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5.蕗の薹を日頃の暮らしに認めしはどの地たりしか 当地では見ず
たかしさん、丁寧なご批評をいただきありがとうございます。
私は長い間借社宅住まいをしていました。社宅はたいがい閑静な地に設けられていました。
蕗の薹を摘んで食べるということはしたことがないのですが、春を知らせるものとして昔から注目はしていました。
市場やスーパーなどへ買い物に行くとき、小川の傍を通ったり、散歩のときに川の堤などで見た記憶があります。
Re: 2024.3.28 題詠「入学」・鑑賞「蕗の薹」
Re: 2024.3.28 題詠「入学」・鑑賞「蕗の薹」
Re: 2024.3.28 題詠「入学」・鑑賞「蕗の薹」
投稿日 | : 2024/03/28(Thu) 17:45 |
投稿者 | : さらら |
参照先 | : |
1.被災地の能登の少女の手に二つ雪解けの野の蕗の薹とぞ ひら自然災害にみまわれた能登の地にも春は訪れ 変わりなく蕗の薹も芽吹き 未来ある少女が春の命を掌にふたつ持つ。自然の輪廻をみる。
2.善悪の彼岸にあそぶ気まぐれな神より蕗の薹を十二個 ウプラ
彼岸には地獄 極楽もあるそうな 神も気まぐれでおわす その神から蕗の薹12個を賜る。なぜか12個に意味がありそうな
3
.墓参り母の畦道に蕗の薹摘む丸き背愛しき形 さらら
4.蕗の薹はみどりの衣の修行僧みぞれに埋まり霰に打たれ たかし
蕗の薹を修行僧の寒修行と観察する 結句の具体が身も凍える。
5.蕗の薹を日頃の暮らしに認めしはどの地たりしか 当地では見ず ひさお
蕗の薹は春に芽吹く珍味なご馳走となる。暮らしには身近に知っているが いったいどこにあるのか当地では見当たらない。
Re: 2024.3.28 題詠「入学」・鑑賞「蕗の薹」
Re: 2024.3.28 題詠「入学」・鑑賞「蕗の薹」
Re: 2024.3.28 題詠「入学」・鑑賞「蕗の薹」
投稿日 | : 2024/03/28(Thu) 15:27 |
投稿者 | : ひらら |
参照先 | : |
1.被災地の能登の少女の手に二つ雪解けの野の蕗の薹とぞ ひらら
2.善悪の彼岸にあそぶ気まぐれな神より蕗の薹を十二個 ウプラ
寒く鬱陶しい冬から春の彼岸をむかえる。まことに気まぐれでも神様からの賜物。春への歓喜のうた。
3.墓参り母の畦道に蕗の薹摘む丸き背愛しき形 さらら
故郷の道はすべてお母様の思い出に続く道。そこに丸い背のお母様が蕗の薹を摘んでられるのを帰郷時にみられたのか。一幅の絵のような作品。
4.蕗の薹はみどりの衣の修行僧みぞれに埋まり霰に打たれ たかし
まだ春浅く雪や霰の厳しい頃に硬い土の中から芽をだす蕗の薹。まさに修行僧。合掌のかたち、法衣のかたち。座禅草がうかんできた。
蕗の薹へのみかたが新鮮、独特である。
5.蕗の薹を日頃の暮らしに認めしはどの地たりしか 当地では見ず ひさお
蕗の薹を日頃の暮らしで見たのはどのあたりかなと 以前住んでいた所と、今の住んでいる所を比べてられ当地では見ずと少し寂しんでられる。
Re: 2024.3.28 題詠「入学」・鑑賞「蕗の薹」
Re: 2024.3.28 題詠「入学」・鑑賞「蕗の薹」
投稿日 | : 2024/03/28(Thu) 12:54 |
投稿者 | : ひさお |
参照先 | : |
1. 被災地の能登の少女の手に二つ雪解けの野の蕗の薹とぞ ひらら
能登の被災地のニュースを見て、その一齣を詠った。暗くなりがちな被災地のニュースの中の数少ない明るい話題である。
2. 善悪の彼岸にあそぶ気まぐれな神より蕗の薹を十二個 ウプラ
毎年早春に芽を出す蕗の薹は神からの贈り物と感謝している。作者は毎年12個いただくことにしている。彼岸にいる神はこの世に対し、気分によっていいことも悪いことも仕掛けてくるが、蕗の薹を芽吹かせてくれるのはありがたいことである。
3. 墓参り母の畦道に蕗の薹摘む丸き背愛しき形 さらら
「母の」は「丸き背」にかかる。
母上のお墓参りをするとき、畦道に母上が蕗の薹を摘んでいた丸い愛しい背が思い出される。
「畦道の」の位置がよくないように思う。
「畦道に蕗の薹摘む丸き背母の墓参に愛しく想う」ではどうでしょうか。
4. 蕗の薹はみどりの衣の修行僧みぞれに埋まり霰に打たれ たかし
蕗の薹に修行僧を連想した独得の作品。蕗の薹の芽吹くのは早春なので、みぞれが降ったり霰が降ったりする。修行中の托鉢の僧もそのような厳しい状況で歩き続ける。
5. 蕗の薹を日頃の暮らしに認めしはどの地たりしか 当地では見ず ひさお
Re: 2024.3.28 題詠「入学」・鑑賞「蕗の薹」
Re: 2024.3.28 題詠「入学」・鑑賞「蕗の薹」
投稿日 | : 2024/03/28(Thu) 09:11 |
投稿者 | : たかし |
参照先 | : |
鑑賞「蕗の薹」
1.被災地の能登の少女の手に二つ雪解けの野の蕗の薹とぞ ひらら
能登の地震、被災地域に住む少女、その手に蕗の薹が二つ。
作者はニュース番組などでこの映像を見たのだと思う。
それが印象的だったのでこの歌になったと思うが、最後の「とぞ」が、気になった。
「雪解けの野の」を強調し、被災した少女であっても蕗の薹を摘むという心のゆとり、そしてまた春を心待ちにしている・・・ということを作者は言おうとしたのかと思う。
が、「蕗の薹持つ」でもそのことは言えるように思う。
2.善悪の彼岸にあそぶ気まぐれな神より蕗の薹を十二個 ウプラ
まだ辺りが春の様子になっていない、草の芽も木の芽も吹き出していない時期に蕗の薹は顔を出す。
浅い緑色のそれはいかにも春を感じさせる。そんな蕗の薹なので、神よりの賜りものと感じても不自然でない。
3.墓参り母の畦道に蕗の薹摘む丸き背愛しき形 さらら
「母の畦道」、いつも母が歩いていた畦道なのだろう。
母はそこで蕗の薹も摘んでいた。しゃがんで背を丸めて・・・
思い出す姿はいつもよく目にしたそうした姿である。
4.蕗の薹はみどりの衣の修行僧みぞれに埋まり霰に打たれ たかし
5.蕗の薹を日頃の暮らしに認めしはどの地たりしか 当地では見ず ひさお
蕗の薹は、梅雨時に蕗が出る場所に三月頃に出る。
蕗は川沿いの土手とか、水の豊かな場所に出る。山でも尾根などには出ず、谷沿いに出る。
作者は「蕗の薹を日頃の暮らしに認めしはどの地あたりか…」と質問の形を上句に、
下句に「当地では見ず」と結んでいる。
蕗の薹が出るのはどの地か・・・ではなく、蕗の薹を日頃の暮らしに認めしは・・・
である。
日頃の暮らしに認める・・・というのは、常にその時期になると、蕗の薹を摘み、食卓に乗せることが慣例のようになっている地域、というように考えられる。
しかし、そういう地域というものはないと思う。
私は今まで8回引っ越しをしてきましたが、蕗の薹がよく出る場所もあれば出ない場所もありました。
そして出る場所であっても、それを気にして、摘んだり、料理して食べたりする人は一部のひとであり、半分以上(8、9割)の人は蕗の薹には無関心な人が多い。
つまり蕗の薹を「日頃の暮らしに認める」のは「地」ではなく、「人」ではないかと私は思うのです。
Re: 2024.3.28 題詠「入学」・鑑賞「蕗の薹」