選評

　　井上次雄

　今年は応募数三十三編。最高齢は九十歳を超え、最年少は高校生と、幅広い作者に出会えました。時代物が六作。一時に比べるとブームは下火になったようですが、うち五作が入賞または入選に入り質は落ちていません。創作は日常を脱することが一番手っ取り早い方法で、そうなると歴史を舞台にするだけで、事件や人物キャラに苦心せずとも話が創れる。留意すべきは、どこまで史実を変えられるかです。今回の歴史物は皆さんお上手で、秀吉（ひでよし）など歴史上の著名人を独自の視点で描いたのや、平経正（たいらのつねまさ）や京極高吉（きょうごくたかよし）の妻お慶（けい）など史実に隠れた人物を掘り起こして創ったのもありました。中でも特選一席は、大溝（おおみぞ）藩主死因の史実をもとに創られた、すぐにでも映像化できそうな完成度の高い秀作です。選外作品にも、大化の改新から壬申の乱の時代を扱ったものがあり、面白く読ませていただきました。
　一方、現代物の場合、自身の体験をベースに書けば自ずとリアリティが生まれます。書きやすいし小説っぽくなる。しかし、誰もが身近に感じる素材だけに、よほど工夫しないと日常描写に終わってしまい面白くない。個性的で魅力的なキャラを登場させたり、奇想天外な事件を設定したり、読者を裏切りあっと驚く展開にしたり、結構工夫が要ります。知事賞はじめ入賞作の現代物は、それが成功したということです。選外作品の中にも個性的で面白いのがありました。嘘が受け入れられない特異体質の男が殺人事件を解決する話や、森の妖精などを登場させた環境ファンタジーなどです。これらはリアリティーよりも想像力・独創性が勝負です。いずれにせよ自分の書きたいものを書くことが基本です。今回評価されなかったからといって決して失敗作ではありません。別の人が見たらまた違った評価をされることもある。それが文芸というものです。自己否定する必要はありません。
　しかし、好みが違うからという一言で済ますのも進歩がありません。審査員の三名は、それぞれ作風が違い文学観も同じではない。なのに、上位に挙がる作品には共通して高い評価を付けます。審査員のみならず、おそらく誰もが評価する上位三作品が、毎年活字になるのです。入賞・入選を逃した方は、これらをお手本にしていただけたらと思います。
　さて、今回はかなりレベルの高い作品が並び、特選はどれもが活字にしたい秀作でした。一方、入選は審査員の評価が分かれるのが多くありました。いいことです。満遍なく及第点を取るよりも、一人の審査員を虜（とりこ）にする方が創作としては価値があります。誰からも批判されず称賛もされない「まあまあ」の作品より、一部のファンを熱狂させるマニアックな作品の方が、将来性があり成功の可能性を秘めています。審査員の守備範囲の狭さが、せっかくの才能を埋もれさせてはならないと肝に銘じています。一生懸命審査しますので、斬新な発想の実験作大歓迎、どしどしお寄せください。
　最後に、応募方法についてのお願い。四百字詰め原稿用紙五十枚以内は守ってください。印字はＡ４判20×20で、ページ数も入れてください。マス目はなくても結構です。（むしろ、ない方が読みやすい。）字数を超えた場合は審査の対象外です。四十枚に満たないのも同じです。誤字脱字、人権侵害などの不適切表現にもご注意ください。来年度も、皆さんと文芸世界でお会いできることを楽しみにしております。

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知事賞＿ハブとマングース＿陸田京介（長浜市）

　主人公夏美（なつみ）が偶然目にした淡路島にある店の名前。そこから中学時代の陸上競技部を背景に二人の友達（いじめが理由で転校してきた透（とおる）、黒人とのハーフの少女ローズ）の重手を回想する。夏美自身対人恐怖症を克服するため絵画セラピーを受けており、共に「群（む）れない」者どうし。友情はその後も続くはずだった。が、透への恋心とローズへの無意識の優越感、そして友人二人を中傷する黒板の落書き事件により三人の仲は瓦解する。修辞の上手さ。絶妙な伏線の張り方。感動的なラストシーン。思春期の倒錯した少女の心理も丁寧に描かれている。欲を言えば、夏美の夫となる孝史（たかし）も中学の同級生だったということにして、もう一つ逸話を絡めてほしかった。父母との関係を入れるよりよい。題名の付け方や先が読めてしまう展開に不満が残るものの、それらを差し引いても知事賞にふさわしい心温まる感動的な秀作である。

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特選１＿大溝（おおみぞ）の月＿夕住凛（高島市）

　大溝藩主の死は酒の席での刃傷沙汰であった。この不祥事による藩お取り潰しを避けるため家老たちは偽装に奔走する。並行して遺臣による政権争いが若君暗殺の陰謀にまで発展する。よくある展開だが、この小説の圧巻は、陰謀を阻止すべく正義感あふれる主人公清十郎（せいじゅうろう）が、陰謀の片棒を担ぐ一刀流の剣客野呂（のろ）と対決に至る過程である。野呂の強さと凄さ。彼に打ち勝つための心の修練と、勝つ唯一の手段の会得。そして最後は読者を裏切る勝負の決着。見事な創作と臨場感。作者の筆力は読者を作中に一気に引き込む。が、上手いがゆえに藤沢周平のコピー感が拭えない。「作者らしさ」が見えて来ないことに不満が残る。江戸時代の女性が恋人の後を追う展開も新鮮さがない。冒頭の殺傷事件への踏み込みも甘い。酒の一言が藩主殺害にまで発展する、納得できる理由を創ってほしかった。それでも完成度の高さは秀逸である。

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特選２＿こころの小部屋＿中川法夫（守山市）

　ボートでオリンピックを目指していた大学生晃（あきら）を突然不治の病ＡＬＳが襲う。余命三年。死の宣告を受け、残りの生を療養所で静かに過ごそうとする彼に、藤沢医師はカウンセリングの仕事を持ちかける。対話型ＡＩロボットのパートナーとして、希望者との面談を背後で遠隔助言するシステム。最初の希望者は死にたいと悩む高一の少女ウサギだった。晃はＡＩを通して面談するうちに少女に恋愛感情を抱くようになる。そして、死を前にした晃と死の淵から生還したウサギは海辺の療養所で「再開」する。「生きる」意味について問いかけた感動的な秀作。作中登場するポリネシアの情景描写が美しく、テフラ看護助手も存在感がある。身体の動かない晃の意思伝達方法やカウンセリングシステムが、読者を納得させるにはやや説明不足。少女以外の希望者との面談逸話（エピソード）等が入るとさらにリアリティが出せたのではないか。

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特選３＿千鳥の淡海（うみ）＿吉野幸夫（大津市）

　この文学祭で近来まれに見る本格的ミステリーの登場に拍手喝采。活字に出来ず残念だ。ゲームソフトを扱う不二産業社長のもとに、柿本人麻呂の歌二首だけが書かれた手紙が送られる。さらに有間皇子（ありまのみこ）の歌の社内掲示、人麻呂辞世の歌の送付を経て、ついに社長が誘拐される。会社幹部から依頼された怪事件を、名探偵にして歴史研究家のマスター白鳥健（しらとりたける）が名推理により一刀両断解決に導く話だが、これがまた実に面白い。このレベルの推理小説を、万葉集歌や人麻呂伝説、いろは歌暗号説を挿入して創作する力はすごいとしか言いようがない。難点はソムリエールの「私」の視点で書き切れていないこと。語り部を「私」にする必要もない。犯人を性転換させる設定も必然性に乏しい。肝心な事件解決の現場を押さえるのに、仮名手本忠臣蔵から猿丸神社を連想させる展開はあまりに突拍子。読者が納得しないといけない。

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特選４＿影送り＿川島謙介（近江八幡市）

　法事で帰省した七十過ぎの「私」は、湖畔に写生に出かける。そのとき感じた既視感から、ポンプ小屋での中学二年夏の記憶が蘇る。釣りに誘った大塚が船から落ちる。服を乾かすためにポンプ小屋に入った「私」は、ふざけて親友の弘と二人で裸の大塚にプロレス技をかけ、大塚は気を失ってしまう。常日頃「私」は大塚に不快感を抱いていたのだった。この事件に罪悪感を覚えた「私」は、何度も大塚が自殺する夢を見てトラウマになり、ついに不登校になる。二学期に入り、弘が例の事件で少年院に入ったことを知る。大塚の父は警察署長だった。「私」だけが罪に問われなかったのは、大塚の弁護によるらしい。弘はその後刑務所を出たり入ったりの転落人生。その元凶である「私」は安穏な人生を送ってきた。主人公の半世紀を超えた事件に対する深い懺悔の思いが丁寧で静謐な文体で淡々と述べられている。味わい深い。

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特選５＿弟橘（おとたちばな）＿松岡佳子（大津市）

　母の七回忌が無事終わり、主人公の真由（まゆ）が叔母の家に向かう途中立ち寄った建部大社は、日本武尊（やまとたけるのみこと）が祀られている。彼の東征時、荒れ狂う海に入水して海神の怒りを鎮めたのはその妻弟橘媛（おとたちばなひめ）だった。そしてそれは母との思い出に登場する菊の名でもあった。十六歳の真由が母と電車に乗った時、母は隣の若者の持つ菊を「おとたちばな」と命名するよう勧めたのだ。法事以前から兄夫婦との遺産相続や兄嫁との確執で揺れていた真由は、自己犠牲により平穏をもたらした古代の姫に倣（なら）う決意を固める。相続権の放棄である。すっきりした真由は、草津の水生植物園に向かい、偶然あの時の菊「おとたちばな」と、今は園長へと成長した若者との再会を果たす。亡き母が仕組んだのか運命的な偶然が、独身の主人公の幸福な未来を暗示する。淡々とした自然体のユーモアに富んだ文体で、日常を舞台に素適なロマンスを創り上げている。

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特選６＿芳洲（ほうしゅう）の心
　　　古橋童子（長浜市）

　長浜市ゆかりの偉人雨森芳洲（あめのもりほうしゅう）を漫画で紹介する企画。そのコラムとストーリーの制作を、駆け出しの小説家「私」は引き受ける。芳洲は江戸時代に朝鮮国との外交に尽力した国際人だが、調査を進めれば進めるほど、芳洲が長浜とは何のゆかりもない人物であることが明らかになり、仕事に行き詰まる。制作委員会も学芸員の宮本さんも頼りにならず、助言者の上尾（あげお）教授だけを頼りに四苦八苦するが、期日までに間に合わず結局企画は頓挫する。しかし、この苦労の果てに「私」は芳洲の心の本質に気づく。些細なことも記録する委員長の習慣、常に礼を失しない教授の気遣い、芳洲の著わした貴重な書物が郷里の蔵に残されていて、それを子孫が大切に保管してきた事実等々。これこそが芳洲の心そのものであり、長浜市には芳洲の心が根付いていたのだった。リアリティ満載。これは小説というよりドキュメンタリーの名作である。

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特選７＿霊峰をつたう恩愛＿田村明大（草津市）

　伊吹山は都の鬼門に位置する霊峰であり、周辺に古戦場も多い。山麓の集落に住む祥真（しょうま）の曽祖父（おおじいじ）は白寿を迎えるが、霊の存在を信じ、山で独居する変人である。祥真の親友楓芦（ふうろ）もまた霊視能力を持つ。二人は村の異変に気づいている。古来脈々と続いてきた盆の送り火が、ここ数年の流行病（はやりやまい）により行われず、そのため行き場をなくした多くの霊たちが村人に憑依（ひょうい）して冥界（めいかい）に引きずり込もうと悪さをし始めたという。妹も死んだ母が呼んでいると口走って暴れ危険な状態に。村人を助けに入った楓芦も憑依され絶体絶命のピンチ。危地を救ってくれたのは、十三年前に過労がもとで亡くなった母の霊だった。クライマックスは、『古事記』にも登場する伊吹の神白猪と、草薙剣（くさなぎのつるぎ）を携帯する曽祖父との対決。残念ながらその場面はカットされたが、荒唐無稽のSFが少しも嘘っぽくなく、霊の存在を実感できそうな筆力に感服する。

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入選１＿怨舞流々＿佐藤駿司（大津市）

　時は平安末期。木曽義仲を討つべく北陸に向けて発つ平維盛（たいらのこれもり）を大将とする平家軍は、兵糧を確保するため湖西の村々を急襲し殺戮の限りを尽くす。同行する平経正（つねまさ）は、維盛に捕縛された巫女（みこ）を慰みものにと提供されるが、寸前で巫女は舌を噛み切って自害する。その後、経正は竹生島（ちうぶしま）に渡り、そこで出会った禰宜（ねぎ）の娘伊津（いづ）と深い仲になる。伊津を残し戦に旅立つ経正は、「思いの印」として簪（かんざし）を手渡す。それは自害した巫女の持ち物であり、伊津はその妹だった。愛する男が最愛の姉の敵（かたき）と知った伊津は、幽鬼となって復讐すべく湖に身を投げる。揺るぎない文体、よどみない展開、巧みな修辞。いずれを取っても作者の力量は十分に伝わる。が、維盛と経正のキャラの書き分けが不十分で、伊津が経正に惹かれる理由も言葉足らず。まして姉の死の真相を経正本人に確かめもせず嫌疑不十分のまま身投げする展開は不自然だ。

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入選２＿弁天の夢＿猪子羊之助（守山市）

　浅井を滅ぼし、湖北の領地を引き継いだ秀吉は長浜に築城する。子のないおねは、秀吉に「子を作れ」と別の女を手配する。それが波美（なみ）、後に南殿（みなみどの）と呼ばれる側室だった。秀吉の第一子、石松丸秀勝（いしまつまるひでかつ）に着眼した作品という点では希少価値がある。その石松丸（いしまつまる）は三才で夭折。産後病床にあった波美もまた後を追うように亡くなる。跡取（あとと）りを設けることは、お家を存続させるための城主の務め。それを心得て行動するおねの、正室としての生き様は力強く、結婚前薙刀（なぎなた）で秀吉と対決する場面も迫力がある。一方、秀吉についても、愛妻に突き放された夫の孤愁、子を亡くした父の狂わんばかりの悲哀が巧みに描かれる。が、戦国を差し引けば、子のない夫婦の話で終始しドラマにもなり得ない。二人の妻を暗示する「弁天」も作中で働かず、これでは題名にする値打ちがない。何か事件を創って、後半を盛り上げてほしかった。

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入選３＿三上山幻譚（みかみやまげんたん）
　　　北川慎（野洲市）

　太古から三上山に棲み、生き物や人々の暮らしを見守る「精（せい）」と、幾度となく襲ってきては、村里を破壊し、あまたの命を奪い去る「龍（りゅう）」が冒頭に登場し、度肝を抜かれる。龍の起こす洪水で、両親に続き幼い妹と弟を死なせ、ひとり生き残った少年アサが、命の恩人の娘と恋に落ち、子を設ける。しかし、再び訪れた龍の襲来によりアサは妻子を殺され、ついに怒りのあまり大蜈蚣（むかで）に変化（へんげ）して龍への復讐に燃える。精は、妻子の魂を弔い、村人を守り続けることを誓い、その怒りを鎮めようとする。実にスケールの大きいファンタジーである。繰り返される野洲川の氾濫をベースに、オオムカデ伝説や山頂付近の大岩の由来を巧みに加味する。被災して死ぬ人間や動物たちの酷く克明な描写が、新感覚派と呼ばれた横光利一の短編「蝿（はえ）」の文体を想起させる。作者独特の表現方法に、未知の才能を予感する。評価が分かれる異色作。

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入選４＿抜け出した幻＿馬渕兼一（野洲市）

　稔（みのる）は詩の会報誌の会員。掲載された詩をもとに、月例の合評会が開かれる。いつものように会員に酷評される。そこへ場に不似合いな四十歳前後の清楚な女が現れる。女は「雨男」と「ルシカ」が登場する不思議な象徴詩を投稿していた。女に興味を持った稔は女の自宅を訪れる。そこで鯉に餌をやる少女に出会う。少女はルシカと名乗る。部屋に案内されると、あの女が椅子に縛り付けられていたが、女はこのロープを解いてはならぬと制する。詩の創作に集中できない稔の頭から抜け出した迷いのようなものが「幻」となって現れたのか。最後まで「雨男」の正体は暗示的で謎めいている。卑近な日常に隣り合わせた幻想の世界が、リアリティある展開で綴られ、非現実的な出来事が、実際起こっているような錯覚に陥らせる筆力がある。これも評価の分かれる異色作である。

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入選５＿平成土葬狂想曲＿竹内宇瑠栖（守山市）

　一言で済ませば、この時世で「土葬」する話。火葬は嫌だ、土葬にしてくれと言って死んだ父親の遺言を守って、息子が奔走するドタバタコメディだ。息子隆（たかし）の語る「近畿で最後の土葬」もしかしたら「日本で最後」かも知れない。そんな大仕事を隆はやってのけるのである。まず葬儀屋に反対される。行政の許可を取る。地元の寺を借りて通夜を行う。次いで枕経（まくらぎょう）を読む者の代役探し。死後硬直までに遺体の手足をたたむ座棺（ざかん）。墓穴掘り。野辺送（のべおく）りの手順等々。作者も参考文献を明記しているが、おそらく実に正確な土葬手順が記されているのだろう。「読みながら学ぶ土葬マニュアル」と言ってよい。小説として評価するなら、お葬式をめぐる人間群像が克明かつユーモラスに描かれた佳作、とでも書けそうだが、やはりこの手の小説は評価が分かれる。「平成」は旧い。どうせ今年出すなら「令和土葬狂想曲」にすべきだろう。

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入選６＿海峡の街追憶＿谷口俊明（大津市）

　これは、愛妻に先立たれた「独居老人」による、亡き妻への挽歌であり相聞歌である。「私」は妻と出会った「珠玉の日々」を追憶する。昭和四十九年に下関造船所に入所してからの社内外の出来事が詳細に語られる。オイルショック、プラザ合意、バブル崩壊という経済変動の影響を受けて、社内では、造船業の操業の様子、休日の釣り船、上司との軋轢と対立、独身寮での友情、リストラの波、労組での傷害事件、挙げ句の果ては「私」自らへの収賄容疑による左遷まで、雪崩（なだ）れるように当時の事件が描かれる。それと並行して、親友が最初に惚れた上司の娘と恋仲になる過程も描かれる。これが妻との運命的な出会いであった。苦境に立つ「私」をその後も妻は陰で支え続けてくれた。文面全体から感謝の念が伝わってくる。経済小説の一面も持つが、やはりこれは、深く尊い夫婦愛を描いた、大人のための恋愛小説である。

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入選７＿あの時 〜京極の家〜＿山東圭八（米原市）

　京極高吉（きょうごくたかよし）の妻お慶（けい）は、夫と共に安土城下の南蛮寺（セミナリオ）を訪れ、そこでオルガンを弾く神父の白い指を見て気を失う。母が信長の命（めい）により手の十指を切られ処刑された記憶が蘇ったからである。お慶は浅井長政の姉であった。お慶にはある後悔が残る。京極家再興を目論（もくろ）む夫は、信長上洛に乗じて道中宿を提供し、関係を結ぼうとする。宴会未明、お慶もその準備で山道を掃き清めていた。そこへ遠藤直経（えんどうなおつね）が馬に乗って現れる。長政が差し向けた信長暗殺の刺客があった。察したお慶は、自分と家族のために暗殺を思いとどまらせるように暗に直経に訴える。直経はその意を汲む。彼は姫の頃から家臣としてお慶に特別な思いで仕えてきた忠臣だった。しかし、その結果が、長政一族の非業の死であった。これもレアな素材であるが、主君から命じられた信長暗殺をそう簡単に断念するだろうか。肝心なところの踏み込みが足らない。

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入選８＿燦・SUN SON＿松本佐知子（甲賀市）

　明美は、大学時代、友人の誘いで「怪しい宗教」のセミナーに参加し、次第に洗脳されていく。すんでのところで思いとどまり深みにはまらずに済んだのは、母のおかげだった。母は車で待ち伏せして強引に実家に連れ帰り、娘のお前は自分の「太陽（SUN）」だと涙ながらに訴え、明美を教団から取り戻そうとした。小学校の時、祖父に買ってもらったクラリネットを落とし、車にひかれて壊してしまった。ちょうどその直後祖父が亡くなったことから、祖父の死は自分の不注意によるものと、心の傷になっていた。母は、クラリネットがお前の身代わりで事故に遭ったのなら、祖父はむしろ喜んでいると慰める。やがて母が亡くなり、明美の娘に男児（SON）が誕生し、「燦（さん）」と命名される。母にとって、孫娘も「太陽」だったのだ。心温まる家族愛の物語である。が、この主題に新興宗教の洗脳事件を使うのは、主題には不似合いで、不自然さを覚える。

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入選９＿ガーコンの友＿水相修躬（長浜市）

　七十を過ぎた健介（けんすけ）は、大阪の街で偶然六十年ぶりに幼友達の雄治（ゆうじ）と再会する。健介は湖北の農家に母と二人で暮らしていて、雄治は無二の親友だった。当時の農作業は人力で、田植準備の代掻きから始まり、田植え、草引き、稲刈りと続き、最後の脱穀では「ガーコン」と呼ばれる足踏み式脱穀機が使われていた。名の由来は、ペダルを踏むたびにガーコンと音を立てることによる。二人の友情は、村人の間に、健介の母と雄治の父とのよからぬ噂を生じさせるが、ある日、雄治の父は息子を連れて夜逃げする。その後一度手紙をもらったきり親友との音信は絶えた。農作業はやがて機械化農法が取って代わり、ガーコンも農家から姿を消す。しかし、健介の脳裏から少年時代の親友雄治との思い出は、ガーコンの音とともに六十年間ずっと残っていた。二人の仲の良さが伝わってくる。懐かしい香りのする、農民文学の佳作と言える。

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入選１０＿湖月の歌＿安部良典（日野町）


　東京の大学生峻（しゅん）は、亡き父との確執に決着を付けようと、父の郷里である彦根を訪れる。時代は昭和三十年代か。古い旅館に連泊する間、峻は冬の街をあちこちぶらつく。彦根城、許六（きょろく）の石碑、埋木屋（うもれぎのや」、湖岸などに足を向けながら、学生運動の意義、戦後の日本社会への評価、父への憎しみと思い出など様々な思いにとらわれる。それらの追憶過程で、峻の脳裏に鮎川信夫（あゆかわのぶお）の詩が去来する。結局父の残像をこの地で探すことを諦め、落胆した峻は湖岸に出て、雪の降りやんだ空に月を見る。ふいに、リルケの詩の一節が蘇り、峻は喀血して倒れる。「青白い氷の輪」が近づいて来る。峻の身体は空中に浮遊し、月に向けて飛翔してゆく。安定した文体の味わい深い作品であるが、このタイプの純文学風作品は、ややもすれば自己陶酔に陥り、読者をおいてけぼりにする危険性をはらんでいるので注意が必要だ。