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第73回(2023)滋賀県文学祭_小説部門_特選2_こころの小部屋
投稿日 | : 2024/10/12(Sat) 18:25 |
投稿者 | : ・選者・井上次雄・小野栄吉・宮ア眞弓 |
参照先 | : |
特選2(毎日新聞社賞)
こころの小部屋
中川法夫(守山市)
静まりかえった廊下に、乾いたノック音が響いた。
「しつれい しますッ」
白衣の看護助手が日焼けの肌色をした巨躰をゆすりながら、大股で病室へ入ってきた。夜中に滞留していた個室の空気が、一気に動き出した。
「おつかれさまだった でした」
看護助手はたどたどしい日本語で、深夜勤のヘルパーをねぎらった。ヘルパーがベッド脇に据えたパイプ椅子を畳み終えるのを待たずに、彼女は軽くステップを踏むように窓際へ歩み寄り、盛大にカーテンを引いた。実際はカーテンは静かにレールの上を滑り片寄せられたのだが、彼女の溌溂とした様子がそう思わせた。
外に面している部屋の窓は、中央に嵌(は)め込み式の大きな一枚、そして左右には開閉できる縦長のガラスで枠取りされている。
そこから小さな入り江が眼下に眺められた。湾は腕を拡げたように青い真夏の海を抱え、両手で湾口を作り、その間から沖の濃紺の深海が覗いている。水平線に立ち並ぶ大小の入道雲の峰。右手に黒松の林が岬に向かって延び、左手には長く続く砂浜へうち寄せる波が、白いレースになって広がり砂に消える。丘の裾に外壁を横板で囲った木造家屋が十数戸。老人ばかりが暮らす寒村で、舳先(へさき)を砂浜へ引き上げられた小舟がひとつ見える
(浜辺の松林をヤシの高木にとりかえたら、ポリネシアの景色そっくり)
カーテンを開けるたび、看護助手をつとめるテフラは故郷の島を思い浮かべた。
彼女は南太平洋に浮かぶ島から医療看護の技能を身に付けるため日本へやって来た。島に住めなくなったためタヒチへ移り、そこで一年足らずだが日本語を学び、半月前に空路で来日したのだった。
日本での研修先は療養施設だった。主に重い障害を持つ難病患者を受け入れていて、海辺や山間に点在する無医村の地域医療を担う診療所を併設していた。施設は本州の最南端に位置する紀伊半島の鄙(ひな)びた漁村の丘陵の上に建っている。
丘から見下ろす海は、まっすぐテフラの生まれ育った南太平洋へ繋(つな)がっている。けれど、故郷を失ってしまった彼女には、もうそこへ帰ることはかなわない。
コンビニやスーパーのある町へ出るには、海へ突き出た岬をいくつも回らなければならないが、同じ敷地内に食堂と売店を備えたスタッフ用の寮があり、日常生活に困ることはなかった。
外国人研修生の管理団体をとおして、テフラがこの施設に採用されたのは、エントリーシートに将来看護師になりたい志望を書き、その意欲が評価されたのだったが、彼女がポリネシア出身であることも大きかった。
施設を運営する社会福祉法人の理事長が、彼女の看護師になって日本に永住したいという将来設計をサポートすることを約束してくれた。テフラは施設での新人研修を終えて、一週間前から晃(あきら)の病室を担当していた。
テフラの前任者の介護士は控えめで誠実な人物だったが、晃は生きる希望を見失い自分の殻に閉じ籠もったまま、だれにも心の扉を開こうとしなかった。引き継いだテフラは、持ち前の底抜けの明るさで、そんな重い扉をためらいもなく押し開け、晃の中へずんずん踏み込んだ。
「アキラさん おきる ください ねすごす です」
けれど、ベッドには声も動きもない。患者のバイタルを支える機器の低い音と、シーツの薄い盛り上がりがあるだけだ。
テフラはサイドテーブルのリモコンを持ち上げ、ボタンを押した。窓近くの天井のスリットから、格納されていた大型の電子ボードがゆっくり下がってくる。
「おはよう ございます きょうから おしごと です」
ベッドはやはり無言のままだ。しかしベッドに横たわった晃はすでに目覚めていて、朝の日課をスタートさせていた。
晃は、体の中で唯一動かすことができる部位の機能を、おそるおそる確認した。
──まぶたはまだ、開けたり閉じたりできる。
──眼球も、上下左右に動かすことができる。
そう確かめ終わると、晃は電子ボードに映し出されたキーボードへ視線入力した。
入力完了のキーへ視点を定めると、部屋の隅に取り付けられたスピーカーから、さわやかな挨拶が流れてきた。
「テフラさん、イアオラナ」
晃はテフラから教わったポリネシア語で朝のあいさつをした。その声はまぎれもなく、一年前の二十二歳のころの晃の声色だった。彼は自分が発話できなくなる前に、自分の声を録音して音声合成機器にインストールしてもらっていた。
「アキラさん おきゃくさま むかえる だから みだしなみ」
テフラは晃のベッドにおおいかぶさるように巨きな躰を傾け、患者の体内へ繋がっている幾本もの管やコードに触れないよう細心の注意を払い、まずマウスピースを外し歯を磨き、舌苔(ぜったい)を取り除いた。次にぬるま湯に浸したタオルを丸め、やさしいタッチで顔を拭った。とりわけ患者の唯一の意思伝達の役割をはたす目元は入念に清めた。まつげにくっついている微細なホコリさえ見落とさないよう、気を配った。そして最後にブラシで晃の髪を整えた。
「かっこいい なりました」
テフラが陽気に呼びかけた。その声の調子につられるように、
「ボク、女の子にもてるかな」
晃がめずらしく軽口を言って、テフラを喜ばせた。
病室をあとにする折、テフラは「パラヒ」といい晃は「ハエレ」と応じるのが、二人の暗黙の申し合わせになっていた。
「アキラさんは いつも ハエレ」
ハエレは、残る方から去って行く方へのさようならのあいさつ、パラヒはその逆の言い方。ポリネシア語では二つを区別しているのだと、テフラは晃へ教えた。
晃の体に異変がおきたのは、彼が大学の二年生になったばかりの四月のことだった。
この稿、書きかけ