特選１

　大溝（おおみぞ）の月
　　　
　　　　夕住　凛（高島市）


一

　事件が起きたのは明暦四年（一六五八）七月九日。大溝藩主分部嘉治（わけべよしはる）のもとに、一人の浪人が訪ねて来たことが発端であった。
　浪人の名は織部（おりべ）長重。備中松山城主池田長幸の五男で、嘉治の正室は姪にあたる。
　池田家では、家督を継いだ兄の長常に嗣子（しし）がなく、長常自身も重い病に冒され、末期（まつご）養子を願い出たが叶わなかった。家は徐封となり、長重は浪人となって京に身を置いていた。
　その長重が訪ねて来たと聞いて、筆頭家老の沢井八郎右衛門が猛反対した。
「再仕官の話に決まっておる。そのような余裕は、我が藩にはありませぬぞ」
　大溝藩は家臣百五十人程の小藩である。石高二万石といっても、藩庫に入る年貢米は八千石程度。ここから家臣の俸禄と江戸や京屋敷の費用などを差し引くと、残るのはわずか二千石余。これで藩のすべての経費を賄（まかな）わなければならない。家臣を増やすなど以ての外だというのが、彼の主張であった。
　まったくこの家老は、重箱の隅をつつくように悉（ことごと）く口を挟んでくる。短気な性分の嘉治は当然ながら面白くない。が、沢井家老は内々の目付として親藩の尾張から出向して来ている。嘉治には目の上のたん瘤（こぶ）のような存在だった。
　しかし、浪人中とはいえ相手は正室の伯父である。嘉治は面会を押し切った。
「どうせ草鞋銭（わらじせん）が目当てであろう」と、沢井家老も渋々同意した。
　その夜、御殿の広間で酒肴が振舞われた。

　　　◇

　和田清十郎は、祐筆の原田左近とともに宿直（とのい）として次の間に詰めていた。
　清十郎は二十二歳。四年前に父が亡くなり、大納戸役の跡目を継いだ。剣術では一刀流を遣い、師範代の腕前を買われて宿直を務めている。
　一方の原田は三十過ぎで、丸顔のでっぷりとした体形ながら居合抜きの名手であった。
　二人は襖（ふすま）越しに聞き耳を立て、広間の様子を細大漏らさぬよう神経を尖らせていた。
　嘉治候と織部長重の面談は、酒の酔いも手伝って終始和（なご）やかであった。正室の幼少の頃の話などで談笑する声が、清十郎の耳にも届いた。その後、剣術談議に花が咲き、やがて互いの刀に話が及んだ。
　嘉治候は早速、側に仕えていた近習の別所六郎右衛門に命じて、自慢の〈郷之義弘（ごうのよしひろ）〉を披露している様子だった。郷之義弘は、正宗の流れを汲む名工の作である。作刀数が少なく、滅多にお目にかかることのない刀だ。
　一方、織部長重も預けていた自分の刀を持って来させて披露し始めたらしく、嘉治候の感嘆する声が聞こえてきた。
「ほほう、それが青江ノ刀でござるか」
　国元備中の刀工の作だと、長重の得意げな声がした。幅広で、刃文（はもん）が逆（さか）がかっているのが特長の刀である。
「はははぁっ、浪々の身には似つかわしからざる刀じゃな」
　冗談めかしたような殿の言葉の直後に、織部長重の怒声が響いた。
「その言葉、聞き捨てならん！」
　只ならぬ気配に、清十郎と原田左近は刀の鯉口を切り、襖を細目に開けて様子を覗（うかが）った。顔を真っ赤にした長重が青江ノ刀を振り下ろすのが見えた。あろうことか、その切っ先（きっさき）が嘉治候の首筋を掠（かす）めた。
「な、何をする！血迷うたかっ」
　怒った嘉治候は、立ち上がるなり郷之義弘を抜き放ち織部長重を斬り伏せた。ぎゃっと叫び声をあげて長重は畳の上に突っ伏した。
（！っ）
　一瞬の出来事であった。近習の別所が止める暇（いとま）もなかった。清十郎が広間に駆け込んだ時には、長重は腹這いのままぴくりとも動かない。畳には夥（おびただ）しい血が広がっていた。
「殿っ」
　嘉治候は血塗（まみ）れの首を押さえながら、別所六郎右衛門に抱かれるようにして悶々としている。酒を運んできた女中が悲鳴を上げ、広間は騒然となった。
　ただちに典医の前田玄仙が呼ばれ、手当てが行われた。
「今晩が山でござろう」
　家老や用人が慌（あわただ）しく御殿内を行き来する中、大目付の分部宗九郎から事情聴取を受けた清十郎は、三之間の片隅で呆然と時を過ごした。
　障子窓の隙間から覘（のぞ）く青白い残月が、大溝の空にひっそりと浮かんでいた。

二
　
　織部長重は即死。嘉治候も首に受けた刀瘡がもとで翌朝死没した。享年三十三──。
　沢井家老が血相を変えた。
「けっ、だから言わんこっちゃない」
　早速、評定が持たれた。幸い、長子の嘉高（よしたか）が十一歳に成人しており、跡目相続に支障はない。しかし、刃傷（にんじょう）沙汰が露見すれば、お家断絶になりかねない事態であった。
　評議の末、殿は流行（はや）り病により急逝されたと表向きを取り繕い、その旨の死亡届を江戸藩邸に送ることになった。
　藩侯死去の直後、近習の別所六郎右衛門が追腹を切って果てた。彼は児小姓の時分から嘉治候の寵愛を受けており、殿の生前から殉死を許されていたのだ。
　その噂はすぐさま郭内（城中）に広がり、我も我もと殉死を願い出る者が続出した。
　当時は未だ戦国の遺風醒めやらず、忠誠の証として追腹を切るのが武士の本懐とされていた。ただ、殉死を願う者の大半は下級武士で、知行の加増を期待した打算的な動機が透けて見えるものが多かった。
　沢井家老は、苦虫を噛み潰したように顔をしかめた。
「こんな商腹（あきないばら）は認められん。そもそも東照神君家康公は、殉死を無益なものだと申されておる。これ以上の追腹は罷（まか）りならん」
　大勢の殉死者を出せば、刃傷沙汰の不始末まで露見しかねない──沢井家老は、相次ぐ殉死願を門前払いにした。
　もちろん事件のことは、旗本として辛うじて家名を存続していた備中の池田友政にも急報し、根回しを尽くして、織部長重の死も病死として処理された。

　　　　◇

　藩主嘉治候の逝去から七日が過ぎた──。
　和田清十郎は、冷ややかな視線を感じながら、書院前の廊下を歩いていた。職場の大納戸部屋はもちろん、彼がどこにいてもひそひそ囁く声が嫌でも耳に入った。
「和田殿は、いつ腹を召される御積りかのう」
「殿の葬儀前には切りなさるじゃろうて」
　なかには、聞こえよがし言う者もあった。
「見ろ、生き恥が歩いてござるぞ」
　殉死願を沢井家老に却下された家臣達の憤懣（ふんまん）が、あの夜宿直をしていた清十郎と原田左近の二人に向けられているようであった。それはもはや追腹というよりも詰腹、つまり刃傷を防げなかった責任をとって腹を切れという、一種脅迫的な色合いが濃いものだった。
　しかし、清十郎はそれを打ち払うように、凛とした眼差しを前に向け大納戸部屋に出仕すると、殿の遺品整理を黙々とこなした。
　元号が明暦から万治に改められた七月二十三日、江戸表から志望受理の報が届いた。服忌（ぶっき）は五十日間である。
　ただちに触が出された。歌舞その他鳴物一切厳禁をはじめ、家普請や諸殺生の禁止、火之元入念、諸事穏便相慎（あいつつしみ）──家中・領民に対して喪に服すよう求めたのである。
　ひっそりと静まり返った城下の道を、高張提灯を先頭にした葬列が菩提寺の圓光禅寺に向かったのは七月下旬のことであった。白布で覆われた槍や長刀（なぎなた）の列に続き、白装束の共侍の中に清十郎の姿もあった。
　初七日、二七日（ふたなのか）と忌日法要が粛々と行われ、郭内の空気も次第に落ち着きを見せ始めていた。殿の遺品分配目録も仕上がり、大納戸役の清十郎としてもひと区切りついた。
　しかし、冷ややかな視線とそしり声は止むことはなかった。
　通常、追腹は忌明けの四十九日までに行われることが多い。満中陰が近づくにつれ、その声は執拗に、かつ刺々（とげとげ）しさを増して、清十郎の行く先々で囁かれるようになっていた。
「あやつ、腹を切るのが余程怖いと見える」
　武士は〈臆病者〉〈腰抜け〉と言われるくらい無念なことはない。清十郎は丹田に力を込め、ぐっと堪（こら）えた。彼には、死ぬに死ねない事情があったのである。

　三

　練兵堂の一画にある剣術道場で、清十郎は久しぶりに汗を流した。先君嘉治候が大の剣術好きだったことから、服忌令下でも武役稽古だけは特別に許されていた。
　稽古が終わると、清十郎は剣術仲間の細野三郎兵衛と連れ立って外に出た。細野は清十郎と同じ二十二歳。腹を割って話せる数少ない親友だ。
「清十郎、家に寄っていかんか。初も会いたがっているぞ」
「うむ」
　清十郎は少し躊躇したが、初の名を聞いて、友の言葉に頷（うなづ）いた。
　細野の妹初は許婚（いいなずけ）であった。この春に祝言を挙げる予定でいたが、昨年の暮れに清十郎の母が亡くなり延期してもらっている。その上、殿の逝去による葬儀準備や遺品整理に忙殺されて、久しく初と会っていなかった。
　二人は道場を出て、惣門から続く北町通りを西に向かって歩き出した。右手は土塁と高塀が、町家との境界を仕切っている。まもなく左に折れ、武家屋敷が並ぶ東町通りを進むと、中町通りの辻に細野の家が見えた。
　中組の代官を務める細野の家は、役宅を兼ねている。屋根の付いた棟門（むなもん）を潜り、山茶花の垣根で囲まれた邸内の庭から屋敷に入った。
　座敷に座るなり、細野が清十郎に言った。
「今日のお前の剣は、なにか殺気立ったものを感じたぞ」
「いや、それは細野の思い過ごしだ」
　開け放った障子から庭の木立を伝って、時折風が入ってくる。八月も未だというのに、まだ風は生温かい。軒先に吊るした風鈴だけが、涼やかな音を立てていた。
「鳴り物は禁止だが、これくらいはよかろう」
　細野の軽口に、清十郎は思わず頬を緩めた。久しぶりに笑ったような気がした。
　その時、初がお茶を運んできた。清十郎をちらと見て微笑むと、わずかに恥じらいの色を顔に浮かべて、すぐに立ち去った。香り袋の白檀（びゃくだん）の匂いが後に残った。
　初の姿が見えなくなったのを確かめて、細野が声を潜めて切り出した。
「時に、藩内に不穏な噂が流れているのを知っているか」
「どのような噂だ」
「殿のご逝去に乗じて、家老の別宮殿が何事か企（たくら）んでいるらしいのだ」
　藩政は沢井家老が一手に取り仕切っている。それを面白く思わない重役は多い。特に次席家老の別宮久兵衛と用人藤田又左衛門は、反沢井派の筆頭だと言われていた。
　清十郎は、引き締まった精悍な顔を曇らせ、眉を吊り上げた。
「殿の忌明け法要もまもなく終わる。後は江戸におられる嘉高様の相続仰付（おおせつけ）を待つばかりだ。こんな時に、一体何を企むというのだ」
　服忌の期間中、後継者は江戸城には登城できない。跡目相続の手続きが始まるのは忌明け後だ。嫡男嘉高候への相続仰付は、おそらく十一月か十二月頃になるだろう。つまり、それまでは当主不在の空白期間が続くのだ。
「今は、藩が一丸とならなければならん大事の時だぞ」
　嘉高候は元服したばかりの十一歳。しかも病弱である。養子相続が許される十七歳までの六年間、只々嘉高候の息災を願う長くつらい日々が待ち受けているのだ。現に昨年、讃岐丸亀藩は幼君が八歳で亡くなり、お取り潰しになっている。
　清十郎の真剣な眼差（まなざし）に、細野も深く頷いた。
「うむ、噂では別宮家老がしきりに辰之進様のところに足を運んでいるらしいのだ」
　辰之進は殿の妾腹の子で、〈丈夫届〉も出されていない。世継ぎの権利を持たない辰之進に取り入ったところで、一体何の意味があるというのか──清十郎にはわかりかねた。
「清十郎、お前はそういうことには疎（うと）いから、騒動に巻き込まれんようにしなくてはな。それに、別宮家老の一派には物頭（ものがしら）の野呂殿がついているらしいぞ」
　その名前を聞いて、清十郎は鋭い眼光に赤黒い顔をした一人の男を思い浮かべた。
「一刀流の達人か」
　野呂官兵衛は、清十郎が通う道場の元師範代であった。歳は四十半ば、直接手合わせをしたことはないが、免許皆伝の腕前だと聞く。もし野呂と立ち合ったなら、十にひとつも勝ち目はないな、と清十郎は思った。
「おう、そうだ。拙者は野暮用があって、ちょっと出かけねばならん。お前はもう少しゆっくりしていろ。初に相手をさせよう」
　そう言うと、細野は飲みかけの茶をぐぃと飲み干して腰を浮かせた。彼なりに気を利かせたつもりなのだろう。
　細野と入れ替わるようにして、初が座敷に顔を出した。
「清十郎様、お久しゅうございます」
「初、無沙汰を致したな」
　茶屋辻模様の藍の小袖を着た初は、整った目鼻立ちの柔和な小顔を清十郎に向けて、はにかむように微笑んだ。
　風鈴が、ちりりんりんと鳴った。
　細野の家も三年前に父が亡くなり、病気がちの母親は奥の部屋で療養中らしく、家の中は静かであった。
　二人並んで庭の木立を眺めた。膨らみかけた木斛（もっこく）の実に誘われて、時折メジロがやって来てはどこかへ飛んで行く。
　清十郎は、遠い日を思い出していた。まだ脇差しか許されなかった十二歳の時、道場に入門した清十郎はすぐに細野と仲良くなった。家に遊びに行くと、勝気でお転婆な妹がいた。髪をお煙草盆に結った初である。
「もうひと月もすれば、城山は松茸狩りだな」
「はい、懐かしゅうございますね」
　三人はよく山に出かけた。御陣屋の裏手には、城山と呼ばれる藩の持ち山がある。打下（うちおろし）城のあった城の台や長法寺山──夢中でわらび獲りや松茸狩りをしたものである。清十郎にとって、初は妹のような存在であった。
　ところが三年前の春、清十郎は十五歳になったばかりの彼女の内に、初めて″女″を感じたのだった。いつのまにか初は、清楚な月を思わせる女に成長していた。
　それに気づいた時、愛（いと）おしくももどかしい、微熱ともつかぬ、なにか胸の奥底からこみ上げてくる、どうにもならない感情に彼は翻弄された。
　その年の秋、城山に続く道の木蔭で、初の口を吸って抱きしめた。それ以来、清十郎は一人でいる時も、いつも初と一緒にいるような心持がしていた。
「兄から聞きました。ご家中では、追腹を迫るような陰口が横行しているとか」
　初は、真っ直ぐな視線を許婚に向けて、心配そうな声で言った。
「いや、殿が急に亡くなられて、皆々気が立っているのだ。心配は無用……」
「追腹などしてはなりません。初が許しません」
　初のその真剣な物言いに、清十郎は胸を突かれた。思わず彼は初の白い手をとって、優しく握りしめた。
「わかっている。そなたを残して、腹など切るものか」
　そう言うと、清十郎は初を引き寄せ、ひしと抱きしめた。夏の名残の風に吹かれて、風鈴がまたちりりんと鳴った。

　四

　清十郎の家は、城下町の石垣（いしかけ）通りに面した伊勢町にある。丸木を立てただけの門が、かろうじて他の町家との違いを示している。郭内の屋敷とは比ぶべくもない手狭な家だが、親兄弟のない一人住まいの身にとっては、むしろ広すぎるようにさえ思えた。
　何度か初が家に来てくれたことがあった。甲斐甲斐しく洗濯や掃除をする初の姿が初々しく微笑ましかった。いつもは振り売りの惣菜で間に合わせる清十郎に、御馳走を作ってくれたこともある。
　──夜、清十郎は一人くれ縁に座って雨あがりの空を眺めていた。鋭利な刃先を思わせる眉月が、雲間に冴え冴えと浮かんでいる。
　清十郎の脳裏に、刃傷のあった夜の光景が思い浮かんだ。
　あの夜──大目付から事情を聞かれた後、三之間に控えていた清十郎は御寝所（ぎょしんどころ）に呼ばれた。人払いがなされ、嘉治候と二人きりになった。殿は床に臥したまま仰せになった。途切れ途切れの苦し気な声であった。
「……そちに追腹は許さん……もし家老の別宮に不穏な動きがあれば……命をかけて阻止するのじゃ……嘉高を護ってやってくれ……呉々も他言せぬようにな……」
　嘉治候の言葉は、それだけであった。三之間に戻った清十郎は、呆然として時を過ごした。夜は白々と明けかかっている。暫（しばら）くして御寝所の周辺が慌しい空気に包まれた。殿が身罷（みまか）られたのだった。
　──あの日以来、清十郎は殿の言葉を何度も反芻していた。先日、細野が言っていたように、別宮家老が妾腹の子辰之進に近づいているらしい。しかし、その事と殿の憂慮がどのように繋がるのか、考えあぐねていた。
（追腹などしてはなりません。初が許しません──）
　ふいに、初のあの必死な声が胸に響いた。殿からの密命を受けていなければ、自分は潔く追腹を切っていただろうか……。清十郎は自分自身に問いかけた。
　彼も武士である以上、死を恐れる気持ちはない。常に死と隣り合わせで生きていると思っている。
　仮に、初という最愛の存在が隣にいて、もう一方の傍らにある〈死〉とどちらかを選べと言われたらどうする？
　もとより比べようのない問いだが、それが主君の御用に立つのならば、死を選ぶのが武士の道に違いない。
（そなたを残して、腹など切るものか……）
　では、初に誓ったあの言葉は偽りだったのか？いや、あれは人としての嘘偽りのない本心であった。武士の前に人で在るのか、人である前に武士として在るのか……清十郎は葛藤に苦しみながら、もう一度月を仰いだ。
　その時である。表戸を小さく叩く者があった。戸を開けると、意外な人物が立っていた。あの夜、一緒に宿直をしていた原田左近だ。
「ちと話があってな」
　座敷に案内する、原田は部屋をぐるりと見まわしてから、静かに腰を下ろした。
「すまぬが、灯を消してくれんか」
　清十郎は、黙って言われた通しに行燈（あんどん）の灯を吹き消した。月は雲に隠れたのか、深い闇の中から原田の低く硬い声が聞こえた。
「話というのは他でもない。一昨日、江戸表から報せが届いた。嘉高候が高熱を出して臥せっておられるそうだ。病状は芳（かんば）しくない」
「……」
　父君を亡くされたご心痛もあるのだろうと、清十郎は思った。
「ところで近々、辰之進様が用人蔵田の子と名乗って江戸へ行かれる」
「なにゆえ、辰之進様が？」
「うむ、名目は御遊学だが、もし相続仰付の前に嘉高候が亡くなられるようなことがあれば、辰之進様を身代わりに立てる積りなのだ。これは公辺内分というやつでな、窮余の策だ」
　公辺内分、つまり御交儀には内緒で世継ぎをすり替えるというのである。
　辰之進は十三歳。嘉高候と年恰好が似ている。将軍へのお目見えが済む前なら、嘉高候になりすましても怪しまれることはない。それに、辰之進は至って頑健で、今まで病気ひとつしたことがないという専（もっぱ）らの噂であった。
「しかし、別宮家老の本音は外（ほか）にある」
　原田は、一段と声を落とした。
「嘉高候を殺（あや）めて、辰之進様とすげ替えるのが真の目的だ」
　漆黒の闇の中で、原田の言葉が雷鳴のように清十郎の耳に突き刺さった。
「そ、それは誠のことですか」
「確証はない。しかし、別宮と江戸家老の三宅源八郎は昵懇の仲だ。おそらく毒を盛って、嘉高候を無きものにする積りであろう」
　二万石の小藩で、まさかお家騒動とは──清十郎には俄（にわ）かに信じられないことであった。
　藩主を辰之進にすり替えることで、藩政を牛耳る沢井家老の力を弱めようという魂胆なのか。しかし、そのために世継ぎを抹殺するなど、あってはならないことだと清十郎は思った。
「左近殿、お手前はなぜそのように重大な話を拙者にされるのか」
「おぬしは存知なかろうが、あの夜、それがしも殿の枕頭（ちんとう）に呼ばれたのだ」
「えっ」
「殿は別宮家老の動きを内偵し、おぬしに伝えよと仰せになった」
　清十郎は、暗闇の中にひとかけらの光明を見たように感じた。今まで、誰が味方なのか掴めずにいたが、漸（ようや）く協力者が一人、目の前に現れたのだ。
「亡き殿からの密命は、沢井家老もご承知置きのことなのですか？」
「いや、家老はご存知なかろう。大目付の分部宗九郎殿にはそれがしから話をしたが、万一のことを考えておぬしの名は伏せておいた」
「では、誰が敵か味方かわからないまま、上意を果たせというのですか」
　闇に差した光が、一瞬揺らいだかに見えた。
「殿は内密にと仰せになった。事が事ゆえ、ごく限られた人数で阻止せよとの思し召しなのだ。他に誰か仰付を受けた者があったのかどうか……。あるいは、その前に息を引き取られたのかも知れぬ」
　原田の声が、苦渋の色を帯びた。
「おぬしも追腹を強要するような陰口に、さぞ難儀しておるだろう。それがしも何度腹を切ろうと思い詰めたことか。しかし、殿のご遺志を賜（たまわ）った以上、周囲の者が何を言おうと、奴らの悪企みを阻止するまでは死ねんと思いなおしたのだ」
「左様、同感です。ところで、辰之進様の江戸行きには、蔵田様が同行されるのですか」
「いや、物頭の野呂官兵衛のようだ」
　原田は、一刀流の達人の名を口にした。やはりどうしても野呂と立ち合わなければ、事は済まないようであった。
「万が一、嘉高候が病没されるようなことがあっても、公辺内分はその時で十分間に合う。今、辰之進様を江戸に行かせてはならんのだ」
「江戸行きは、いつなのですか」
「それは……わからん。それがしは、もう少し詳しい事を探ってみる。奴らは間者（かんじゃ）を使っているかも知れん。おぬしも十分に注意せよ」
　そう言い残して、原田は帰って行った。

　五

　数日後、剣術道場に清十郎の姿があった。地稽古が済むと、門弟を指名し、次々と打ち込ませた。
　剣は技の起こりと終わりに隙が生まれる。攻めて来る相手の木刀を払いながら、一瞬の隙を逃さず反撃に転じるのだ。
　清十郎の切先（きっさき）は、常に正中線（せいちゅうせん）を外さない。それは太鼓の撥（ばち）に似て、打つと同時に元の位置に戻る。小手、面、突──清十郎は門弟が繰り出す続技（つづきわざ）の動きに乗りつつ、最後には鮮やかに相手を打ち負かした。
　ふいに、野呂官兵衛の姿が脳裏をよぎった。噂では《夢想の剣》を遣うという。彼には未知の領域だった。
（夢想剣か……）
　稽古が終った後、遅れてやって来た細野が清十郎を庭隅に連れ出し耳打ちした。
「おい、知っているか。原田左近殿が斬られたらしいぞ」
「なにっ」
　原田は洞海（乙女ヶ池）に面した二の丸の御涼台近くで、斬殺されているのが見つかったという。二の丸一帯は松林になっていて、人の出入りは少ない。夕涼みに来た藩士が見つけ、藩庁に通報したようであった。
「たまたま町奉行の恒川（つねかわ）殿と雑談をしていたら、そこに通報があったのだ」
　細野の話によれば、直後に箝口令が敷かれたらしい。当主不在の不安定な時期である。郭内で殺人事件が起こったなどと家中に知られて、動揺が広がるのを憚（はばか）ったのだろう。
「なかなか追腹を切らぬ原田を、不満分子が襲ったのかも知れぬと思ってな。清十郎、お前も気をつけた方がよいぞ」
　礼を言って細野と別れたが、原田斬殺は不満分子の犯行ではないと清十郎は考えていた。
　──その夜、清十郎は町奉行の恒川万兵衛宅を訪ねた。恒川は母方の叔父である。奉行官舎は南町通りの一画にあった。
　裏門から築山のある庭を通って邸内に入ると、座敷に面したぬれ縁に座って煙草をくゆらす叔父の姿が見えた。
「これは清十郎、よぉ来たな」
　恒川万兵衛は鬼瓦のような顔をしているが、元来気さくな人柄だ。しかし、同心や与力からは〈鬼の万兵衛〉と呼ばれ、一目置かれる存在であった。
　床の間に立派な鎧櫃（よろいび）が置かれた座敷で向かい合うと、万兵衛は眉尻を下げて話し始めた。
「清十郎、細野家の初という娘をいつになったら嫁にもらうつもりじゃな」
「ええ、すぐにでも祝言を挙げたいところですが、服忌の最中ですから……」
「うむ、それもそうじゃが、今日は祝い事の相談ではなさそうだな」
「叔父御殿、殺された原田左近殿のことをお聞きしたい」
　原田の名を聞いて、万兵衛の顔付が急に険しくなった。
「どこでその話を聞いたか知らんが、あんまり深入りせん方がよいぞ」
「追腹を迫る連中の犯行なのでしょうか」
「……原田もお前も、白い目で見られておるのは知っている。昨今、追腹は流行（はや）りのようなものになっているからな。昨年であったか、佐賀でも多数の家臣が腹を切っておる」
　万兵衛が言うように、佐賀藩では当主鍋島勝茂候の死去の際に二十六名もの藩士が殉死していた。
「だが、有能な家臣をむざむざ失っては、藩の御為にはならん。亡き殿嘉治候もそうお考えだったろう」
「……」
「お前が心配する気持ちはわかる。しかしな、あれはそんな手合いの仕業（しわざ）ではない」
「なにゆえ、そう思われるのです」
　清十郎の問いに、万兵衛は困り顔で応じた。
「詳しいことは話してやれんが、これだけは教えてやろう。原田は一刀のもとに脳天を割られていた。犯人はかなりの遣い手だ」

　　◇

　叔父の家を辞した清十郎は、南町通りから西門を通って郭外に出た。
　原田も藩では五本の指に入る居合抜きの名手だった。その原田がいとも容易（たやす）く斬られるとは……。野呂官兵衛の顔が脳裏に浮かんだ。
　一刀流の太刀技（たちわざ）は百通りを超えるが、その一心一刀の極意は《切落（きりおと）し》にある。向かってくる相手の剣を真っ向から切り落としつつ、瞬時に打突（だとつ）を加えるのである。原田が斬られた太刀筋は、それを物語っていた。
　別宮一派の動向を嗅ぎ回る原田に気づいて、野呂が口を封じたに違いない。しかも、わざと見事な太刀筋を残していることを考えれば、見せしめの殺戮（さつりく）だと言わざるを得ない。
（原田殿、さぞ無念であったろう……）
　西門を出て右に折れた清十郎は、背戸（せと）川沿いの道を真っ直ぐ東に歩いた。時刻は亥の刻（午後十時）を過ぎている。
　右手には高塀が続き、左手は竹藪と、あとは水田が広がるばかりで人家はない。暫（しばら）く行くと流泉寺が見える。職人町の手前を左に曲がれば、西町の奥が清十郎の住む伊勢町だ。
　しかし、先程から背後に微かな人の気配を彼は感じていた。足を止め、持っていた提灯の火を吹き消すと、清十郎は静かに後ろを振り向いた。
　雲間から覘く上弦の月影が、一人の男の輪郭を怪しげに照らしている。相手の野太い声が聞こえた。
「和田清十郎だな。貴様の命を取りに来た」
「野呂官兵衛殿とお見受けした。なにゆえ、拙者の命を取るお積りか」
　それには答えず、野呂はおもむろに刀を抜くと、正眼に構えた。
「待たれよ。理由もわからず斬られては、たまったものではない」
「問答無用！」
　やむなく、清十郎も刀を抜いて正眼に構えた。野呂との距離は二間半（約四・五ｍ）。相手はじりじりっと間合いを詰めてくる。
　一部の隙もない。全身に力が漲（みなぎ）っているかに見えて、どこにも無駄な力みがない。脱力の極みに達した構えであった。
　野呂の剣が発する鋭い気が、臓物をえぐるかのように迫ってきた。清十郎の体は、その気魄によってまるで串刺しにされたように動きがとれない。背中を一筋の汗が流れ落ち、両足が攣（つ）りそうになった。
（もはや……これまでか……）
　と、その時、背後で拍子木の音が鳴った。続いて「火之元用心、さっしゃりましょう」と呼ばわる声が近づいてきた。
「ふん、命拾いをしたな。運の良い奴め」
　そう言うと、野呂は剣を納めて西に去った。
　振り返ると、高張提灯を提げた数人の人影が見えた。服忌令とともに出された火之元入念の触れを受けて、夜間の市中見回りをする町奉行配下の者達であった。

　六

（助かった……）
　からくも野呂の剣から逃れた清十郎は、急ぎ足で伊勢町の家に帰るなり座敷にひっくり返った。
（あれが、野呂の剣か）
　清十郎は天上を仰いで、ふうっと大きく息を吐いた。
　立合いの瞬間に荒縄で縛られたように動けなくなった。野呂が遣う夢想剣の為せる業（わざ）か、まさに無縄（じゅう）自縛──自分を縛る縄などないのに、野呂の気魄に縛られた。清十郎は、格の違いをまざまざと思い知ったのだった。
　剣の達人は、構えを見ただけで相手がどの程度の剣を遣うかわかるという。野呂は、自分の腕を見抜いているだろう──勝敗は火を見るよりも明らかであった。
　頼みの原田左近が殺され、別宮家老の動きを探る者がいなくなった。原田が密命を打ち明けたという大目付の分部宗九郎も、敵か味方か判然としない。八方塞（ふさ）がりだった。
　疲労が全身に重くのしかかってきた。くるりと身体を横に向けた清十郎は、行燈が照らす畳を横から見て小首を傾げた。畳縁（たたみべり）が僅かに捲（めく）れあがっているのに気がついたのだ。数日前に原田が座っていた場所である。
　近寄ってよく見ると、縁に切れ込みが入っている。指を差し入れると、小さく折り畳んだ紙片が出てきた。
《辰、湊、長月二十日前後》
　紙片に書かれた小さな文字を、清十郎は食い入るように見つめた。
〈辰〉は辰之進、〈湊〉は大溝湊──今月二十日前後に、辰之進は舟を使って江戸に行くという意味に違いない。
（そうか、原田殿は間者が見張っているかも知れないと考え、部屋を真っ暗にさせて、この紙を畳縁に差し入れたのだ）
　舟を使うとすれば、参勤の時と同じように、まず大溝湊から米原まで琵琶湖を渡り、陸路で中山道を江戸へと向かうのだろう。〈二十日前後〉とあるのは、天候の加減で湖（うみ）が荒れることを想定したものか──清十郎は、またひとつ大きく息を吐いた。
　〈あと十日か……〉

　　◇

　殿の四十九日法要も無事終わった──。
　居座っていた暑気を追い払うように、秋の風が大溝の町を吹きわたっている。
　彼はその日の出仕が終わると、大納戸頭に休暇を願いで出た。服忌令が解けて賑やかさを取り戻した城下町を抜け、一路西に向かった。めざすのは音羽（おとわ）村である。
　野呂官兵衛の剣術を知る人物として、清十郎は先々代の師範であった高橋伝右衛門に思い当たった。随分前に隠居し、今は妻の実家がある音羽村の百姓家に身を寄せているらしい。歳は八十近い。
　若き日、藩の許可を得て剣術修行の旅に出た伝右衛門は、伊藤一刀斎の弟子・小野忠明に剣術を学び、一刀流を大溝に持ち帰った。野呂に免許皆伝を与えたのも伝右衛門だと聞いている。
　かなりの変わり者らしいが、清十郎は何としてでも伝右衛門に会いたかった。
　音羽村に着いて道を訊ねると、集落から離れた山裾にぽつんと建つ家だという。行ってみると、浦山と田んぼに囲まれた茅葺の古い民家があった。すでに日は沈み、黄昏が村を包んでいる。
　家の前に人影が見えた。その小柄な老人は杖をついてはいたが、背筋をぴんと伸ばしている。
　清十郎は、その場に跪（ひざまず）き両の手をついた。
「高橋伝右衛門殿でござるか」
「何者じゃ」
「拙者、剣術道場師範代の和田清十郎と申す者、一刀流の奥義を教えて頂きたい」
　清十郎が言うと、相手はふんと鼻を鳴らし、しわがれ声で呟いた。
「こんな年寄りに何を学ぶというのじゃ」
「野呂官兵衛と刃を交えることになりました。どうすれば勝てるのか、ご指南を賜りたい」
　伝右衛門は、もう一度鼻を鳴らした。
「野呂か、野呂と立ち合うというのか。どのような遺恨があるのか知らんが止めておけ」
「いえ、こちらがその積りでも、野呂がこの命を狙っているのです」
「ふむ」
　伝右衛門は少し思案した後、皺（しわ）苦茶の顔を清十郎に向けて、構えてみよと言った。
　清十郎は立ち上がり、刀を抜いて正眼に構えた。暫（しばら）くそれを見ていた老人は、首を横に振った。
「ふむふむ、お前の腕では歯が立たん。命が惜しければ、今すぐ刀を放り出して逃げよ」
「それでは上意が立ちません」
「上意？　なるほど……」
　老人は空を見上げた。東の空に十三夜の月が顔を出している。
「おぉ、見事な月じゃ。清十郎と申したな。わしが良いと言うまで、この場に座して、あの月を見ておれ」
　そう言うと、伝右衛門は家の中に入ってしまった。

　──長い時が過ぎた。虫の音に包まれて、最初は月と対話していた清十郎だったが、やがて言葉は途切れ、霧のように消えて、今はただ皓々とした月と真向かうのみであった。
　ついには、月を見る自分が水になったような感覚を覚えた。相手の所作に臆すれば水面は揺れ、水に映る月影も乱れる。敵を打とう、打たれまいと力めば水は大きく波立ち月も千々に砕けて形を失う。
　勝敗に拘（こだわ）らず、生死にも捉われない不動の境地に至れば、心の水に真如の月が宿る。すははち、相手の心気の動きが手に取るように我が心に映るのだ──。
　気がつくと月は西に傾き、夜が白々と明けていた。と、いつの間にか清十郎の傍らに伝右衛門が立っていた。
「どうやら月の意味がわかったようじゃな。もう一度、正眼に構えてみよ」
　清十郎は立ち上がると、静かに剣を構えた。
「野呂は夢想の剣を遣う。これは現実の理を離れ、五感を離れ、心相に影なく、滞るところなく、無碍（むげ）自在に剣が働く秘技じゃ」
　そう言うと、伝右衛門は自分の杖を両手に持ち正中線に構えた。見事な正眼の構えであった。
「夢想剣を迎え撃つには、明鏡止水の境地だけではまだ足りぬ。己（おのれ）を手放すことじゃ」
（己を……手放す？）
　次に伝右衛門は、杖を持つ両手をそのまま自分の胸の方に引き寄せた。
「正眼の構えは、こうすれば合掌の形になる」
　伝右衛門が打ち付けに両手指を開くと、杖は足元にすとんと落ちた。
（！）
「さすれば、無限の隙ができるのだ」
（？っ）

　七

　四日目の朝、清十郎は家に辿り着くなり昏睡した。頬はこけ、顔は青白い。来ていた六分袖の小袖も袴も汗と土で汚れ、左足の爪先には血が滲（にじ）んでいる。
　──夢の中に、懐かしい光景が浮かんだ。緑に囲まれた音羽の山の中腹辺り、まるで雪山のように白い地肌を見せる〈白坂（白坂）〉に初の姿があった。目に一杯涙を溜めている。
「初……なぜ泣いているのだ」
　こんなに悲しそうな初を、清十郎は見たことがなかった。差し伸べた手は空を切り、初の姿が夕闇に掻き消されるように遠ざかって行った。
「初……初っ……」
　目が覚めたのは夕刻であった。清十郎は起き上がり、着替えを済ませて家を出た。
　江戸屋町を抜けて長刀（なぎなた）町に出ると、眼前に湊が見えてきた。舟溜りには、たくさんの丸子舟が係留されている。
　清十郎は一軒の舟宿に入り、湊周辺がよく見える二階の部屋を借りた。
（今、辰之進様を江戸に行かせてはならんのだ……）
　原田左近の悲痛な声が、耳の奥で渦を巻くように響いた。是が非でも野呂を倒して、辰之進の江戸行きを止めなければならない──清十郎は部屋の障子窓に体を張り付けるようにして、湊に続く道に目を落とした。

　　◇

　二日が過ぎた。荷を積んだ丸子舟が何隻も出ては入りを繰り返し、その度に水主（かこ）や人足が忙しく動き回った。
　九月十九日の夕刻になって、湊の端に一艘の舟（ひらたぶね）が着岸した。湖面は穏やかだ。
（江戸行きは近い……）
　日付が変わった二十日の未明、更待月（ふけまちづき）に照らされて一挺の駕籠が湊へと向かう影を清十郎は見逃さなかった。駕籠の後ろに挟箱（はさみばこ）を担ぐ中間（ちゅうげん）が一人、旅装束の野呂官兵衛らしき姿も見えた。駕籠に乗るのは辰之進に違いない。
　清十郎はすぐさま階下に駆け降りると、裸足のまま外に飛び出した。駕籠の行く手を遮るように走り出て、刀を振り回しながら叫んだ。
「帰れ、上意である。今すぐ陣屋に帰るのだ！」
　清十郎の剣に驚いた駕籠かきと中間が悲鳴を上げた。なおも剣を振るうと、慌てて御陣屋の方に戻って行った。
「えぇい、邪魔立てするか」
　野呂の剣が抜き打ちに飛んできた。清十郎は素早く身を翻すと、間髪入れず野呂めがけて打ち込んだ。
　ふたつの刃が交差する度に、薄闇にかちんかちんと音が弾けた。清十郎が繰り出す切先（きっさき）を、野呂は悉（ことごと）く弾き返してくる。
　清十郎は怯（ひる）むことなく、足を使い、右に左に剣を振るい野呂を押し込んでいくが、当意即妙に剣を払いながらも野呂の剣は常に正中線を外さない。後退しつつ、一瞬の隙を覗（うかが）っているのだ。
　野呂の目が光った。と、その時、清十郎は素早く後ろに飛び退いて間合いをとった。
　静寂が辺りを包んだ。月はまだ頭上に浮かんでいる。まるで朧（おぼろ）な夢の中にいるようであった。清十郎はゆっくりと息を吐き、心を静めた。
　そして、正眼の構えから剣を立て、両の手を自分の体へと折り畳むようにして近づけた。陰の構えでもなく、陽でもない。拝むようにして剣は正中線上にある。
　視線を相手に据えたまま、くわっと両手指を開いた。剣は柄頭（つかがしら）を下にして、清十郎の足元にするりと落ちた。
「えやぁぁぁっ！」
　もうその時には、野呂が上段から剣を振り下ろしていた。
　その刹那、清十郎の左足が刀の鍔（つば）を蹴り上げた。剣は野呂の下丹田めがけて矢のように飛び、野呂がその切先を切り落とした瞬間、脇差を抜いた清十郎の身体は右に飛んで、神速の早業（はやわざ）で相手の喉を掻き斬っていた。
「うぐぐっっっ！」
　赤黒い血飛沫（しぶき）が、天空の月を染めるかのようにどどどっと飛び散った。

　八

　朝──登城太鼓が鳴り響く中、藩庁に出仕した清十郎は、いつものように書院前の廊下を歩いていた。
　城内は騒然としており、誰も清十郎に白い目を向ける者はいなかった。そんなことより、藩内一の剣の遣い手が何者かによって斬り殺されたという話で持ち切りだったのである。
　大納戸部屋でも、野呂斬殺の話題が飛び交っていた。清十郎は同僚に声をかけたが、彼らはそれを無視するように話しこんでいた。
　以前から冷ややかな同僚達であったが、まるで自分がこの場にいないかのような扱いに清十郎は顔をしかめた。が、次々に続報が持ち込まれ、彼らの会話からその後の経過を知ることができた。
　野呂の懐中から江戸家老にあてた密書が見つかったのだ。その書状から、世継ぎの嘉高候を殺めて庶子辰之進にすげ替えようとした策謀が露見した。別宮家老と用人蔵田は蟄居（ちっきょ）を命じられ、即刻自害した。一方、辰之進もお部屋様とともに謹慎に処せられたようだ。
　清十郎は、ほっと安堵の息をついた。
（これで、漸（ようや）く殿のご遺志が果たせた……）
　やがて出仕を終えた清十郎は、大手道（おおてみち）を北に進み、惣門近くの道場に立ち寄った。
　門弟達は、師範代の清十郎が顔を出したのも気づかない様子で、一心に形（かた）の稽古に励んでいる。道場内には木刀を打ち合う音が響き渡っていたが、そこに友の姿はなかった。
（細野の家に寄ってみるか）
　清十郎は道場を出て、北町通りをゆっくりと歩き出した。
　時折、軽い眩暈（めまい）がした。野呂との決闘が終わった後のことを、清十郎はまったく覚えていない。どこをどう帰ったのか、気がついた時には家で仰向けになって寝ていたのである。
　その時、部屋の片隅に微かな白檀の香りがしたように感じた。初が身に着けている香り袋の匂いだ。
（昨夜（ゆうべ）、初が来てくれていたのか……）
　無性に、初に会いたかった。
　北町通りを左に折れて少し行くと、山茶花の垣根が見えてきた。細野家の棟門を潜ろうとして、清十郎は思わず立ち止まった。〈忌中〉の張り札があるのに気がついたのだ。
（はて、誰が亡くなったのか、病で臥せっておられた御母堂様か……）
　垣根越しに屋敷の方を窺うと、ぬれ縁に白装束の細野が立っていた。悲しげな暗い顔をしている。目と目が合ったように感じたが、すぐに細野の姿は屋敷の奥に消えた。
　初に会いたかったが、取り込み中に邪魔はできないと、清十郎は訪問を諦めた。
　伊勢町の家に帰ると、茶箪笥の上に一通の文を見つけた。見覚えのある字──初からの文だ。
《貴方様をお慕い申しております。どこまでもついて参ります。お会いしとうございます。今宵子（ね）の刻、御本丸跡の石垣でお待ち申しております　清十郎様　初》
　清十郎は、夜が来るのを待ちわびた。

　　◇

　本丸の天守台跡には、戦国の面影を宿す石垣が月の光に照らされて、ひっそりと佇（たたず）んでいる。子の刻（午前零時）近く、清十郎は幽寂（ゆうじゃく）とした夢の中にいるような心持で、内濠に映る下弦の月を見つめていた。
　ふいに琵琶湖から一陣の風が吹いて、水面の月が大きく揺れた。その瞬間、清十郎は雷に打たれたような衝撃を感じた。
（思い出した！）
　野呂との決闘の場面が、まざまざと蘇（よみがえ）ったのだ。
　高橋伝右衛門から授けられたのは《捨不捨（しゃふしゃ）》と呼ばれる技の応用だ。それは邪剣であったが、清十郎はこの技に賭けた。
　剣を足元に落とし、四方八方にできた隙をついて野呂が斬りかかる刹那、落とした刀の鍔を蹴り上げれば、反射的にその切先を相手が切落しに来る。その瞬息の間を逃さず、清十郎は無己夢中の境地で野呂に飛び込み、脇差で喉を掻き斬ったのである。
　しかし、同時に清十郎の身体を激痛が走った。飛んできた剣を切り落とした野呂の切先は、瞬秒のうちに清十郎の左脇腹を突き刺していたのだ。
（そうだ、あれは相討ち覚悟の技であった！）
　野呂と折り重なるようにして、清十郎は倒れ込んだ。
　真っ先に駆け付けたのは、町奉行の恒川万兵衛だった。叔父は刺さった刀を抜いて、「清十郎、天晴（あっぱれ）であった」と呟いた。そして、近くの舟宿から外した戸板を持って来させ、清十郎の亡骸（なきがら）を伊勢町の家に運ぶよう役人に命じた。その前に鬼瓦の形相で役人達を睨みつけ、「誰にも言うでないぞ」と念を押した。
　大目付の分部宗九郎もやって来た。野呂の懐から密書を見つけると、早速、別宮家老と用人蔵田のもとに役人を差し向けた。
　その様子を清十郎は、三間程（約五・五ｍ）浮き上がった高みから見ていたのである。
　──そうだ、自分はもうこの世のものではないのだ──だから、自分の家に誰一人気づかなかったのか──清十郎の顔に驚愕の色が走った。彼が頭を抱え跪（ひざまづ）いた、その時である。
「清十郎様っ」
　初の声が聞こえた。見れば、天守台の石垣の上に初が立っている。月は雲に隠れたが、初の姿は光り輝くようにはっきりと見えた。そして、初にも清十郎の姿が見えるらしかった。
「もしや、初、そなた……」
「はい、清十郎様の後を追ってまいりました」
（あの忌中札は、初の死を知らせる札だったのか……）
　清十郎は、苔むした石段を駆け上がった。
「初！」
　二人はぶつかるように抱き合った。
「どこまでも、清十郎様と一緒です」
　雲が去り、月の光に導かれるように、二人の影は手を取り合って城山が聳（そび）える西の空へと消えて行った。

　　◇

　嫡男嘉高候の病は快癒し、その年の十二月に跡目相続が許され、将軍家綱公へのお目見えも滞りなく終わった。
　原田左近と和田清十郎の死は伏せ置かれていたが、沢井家老の計らいにより、原田は亡き殿の百ヶ日に、清十郎は一周忌にそれぞれ追腹を切ったと家中に通達された。
　先君死去の直後に後を追った近習の別所六郎右衛門を含む殉死者三名──。その墓碑が、圓光禅寺に眠る殿の墓を取り囲むようにして建てられた。

　ある秋の日の暮れ、圓光禅寺の分部家墓所に細野三郎兵衛の姿があった。
　あの日、初が清十郎の家に行くと言って前夜出かけたまま帰らぬのを不審に思い、早朝様子を見に行った細野は二人の亡骸（なきがら）を見つけたのだった。
　戸板に乗せられたまま仰臥する清十郎に寄り添うようにして、初の胸には懐剣が刺さっていた。清十郎の右手をしっかりと握りしめた初の死に顔は、薄っすらと笑みを浮かべているように見えた。
　──友の墓碑の根元に妹の遺髪を埋めると、細野は静かに手を合わせて帰って行った。
　夕月が彼の背中をひっそりと照らし、大溝の町を夜の帳（とばり）が包もうとしていた。