知事賞

　ハブとマングース

　　　　陸田京介（長浜市）

　その店は、淡路島にあった。
　夏美は、夫に先立たれ幾年が過ぎたある夜、ネットで偶然目にした店の名前に興味を抱いた。というよりも強いトラウマが蘇ったといったほうが近いかもしれない。その店は、夫婦で始めて、もう三十年だと記事にはある。洲本城近くで、港に整然と停泊する漁船の写真があった。京阪神からほど近く島全体がリゾート化されたふうだが、まだ、漁村の香りは残っていると夏美は思った。だが、店の名をじっと見て、涙が溢れ出ることを禁じ得なかった。そこには（ハブとマングース）との店名が書かれており、一見して、飲食店にそぐわない名だが、夏美は何度も確認するのだった。画面が滲み、涙が溢れ出るのを抑えられなかった。
　翌朝、夏美は身支度をし、押し入れの奥に保管しておいた大きな封筒を取り出し、くるくると丸めて、それでも、愛おしむようにリュックの中に入れた。

　チョークの音が、心地よいリズムを刻み、午後の教室は催眠術にでもかけられたように静まり返っていた。夏美は教室の片隅で、またあの少年の夢を見ていた。長い足を折り曲げ、スパイクシューズをスタプロに乗せ、少年の長く艶やかな髪は目映く輝いている。ピストルの音が鳴ると同時に、鋭く駆け出して行った。筋肉は躍動し、少年はどんどん加速していく。やがて少年は、空をかけ上って入道雲の中心へと消えた。その瞬間、雲は破裂したように四方八方に散った。

「夏美君、ウエイクアップ」
　先生は夏美の隣にすっくと立っているが、やさしい口調でそう言った。
　教室のあちこちからクスクスと笑い声が聞こえ始めた。夏美は見る見る顔を赤らめて立ち上がり、すみません、と頭を下げる。
　終業チャイムが鳴ると、ローズが隣に来てにこりと笑った。そして、ノートの切れ端を夏美に渡した。角張った文字で（DON：T WORRY）と書かれていた。

　夏美は人見知りで恥ずかしがり屋の自分が好きになれなかった。人見知りの始まりだとはっきり記憶している出来事がある。保育園の迎えはいつも母と祖父が交代で来てくれていたのだが、ある日、親戚の、母の兄の娘である加世さんが、迎えに来た。送り出そうとする先生の緑色のシャツを握りしめてじっと動かなかった。いや、動けなかった。一緒に帰ることが恥ずかしいと思った。顔は知っているし、従姉妹なのに、年が離れすぎていたせいなのか、話しかけられてもじっと動けなかったのだ。従姉妹に会うのは年に数回でいつも多くの大人たちがいた。加世さんも立派な大人だった。これから加世さんに手を引かれての二人きりの帰り道を想像するだけで気絶しそうだった。恐怖心は膨らみ続けついに声を上げ泣いてしまった。先生は、母に連絡するしかなかったのだろう。先生は頭を下げながら従姉妹に何事かを言い、加世さんは、作り笑顔を消し去ったまま、帰っていった。母が無理にお願いしたのだろうが、どうしようもなかった。
　それからも人とうまく交われない感覚はずっとあったし、学年が上がっていくたびに、顕著に現われ始めた。
　５年生の時、谷口透が、大阪から転校してきた、あの時は最悪だった。
「今日から皆さんの新しいお友だちとなります谷口透君です。仲良くしてあげてください。それでは、谷口君自己紹介をお願いします」
　先生にそう促され、谷口透は、ぎこちなく白い歯を見せ、艶やかな髪の隙間から覗く切れ長の目をさらに吊上げ、
「大阪は堺から来ました。タニグチトオルです。みなはん、よろしゅうに」
　そう言って、鬱陶しい前髪を掻上げ、ふぅーと息を吐く。
「谷口君は、あそこの窓際の席に座ってください」
　谷口透は、窓際を後ろの席に向かって歩いてきた。一歩、二歩、時々髪を掻き上げるしぐさをしながら、夏美の隣に着席する。
「よろしゅーに、谷口です、トオルて呼んでくれてかめへんよ」そう言って、夏美に顔を近づけ、意地悪そうに笑った。夏美はまっすぐ前の黒板に目をやり、チョークで書かれた（谷口透）の口の辺りをじっと見つめていた。体が動かなかった。しばらくすると、ハッカの臭いが鼻孔を刺激し、横隔膜が強く短い呼吸を求め、その間隔はどんどん早く強くなって、黒板の口の字が三つから四つに、ついには、透と谷の間を回り始め、夏美は激しく痙攣するように泣きじゃくってしまった。
　中学生になっても、人との距離をうまくつかめず、夏美の人見知りは、セメントで塗り固められたようで、なかなか剥がれなかった。
　だが、ローズだけは違った。ローズは、赤毛のカーリーヘアに、赤黒い肌をしていて、その色のせいなのか、興味本位で近づくものはいたが、女子の輪の中からは、いつもはみ出していた。そのことがローズへの親近感につながっていると感じていた。
　夏美はいつもドキドキしながら同級生たちと会話していた。会話と言っても、相手の話に同意するとか、しないとか、（うん）（そう）（またね）ぐらいの言葉を素っ気なく目も合わさず使うのだった。だが、ローズは違う。ローズとは、心で繋がっているというか、もしかしたら前世で双子の姉妹だったのか、そういう不思議な感覚がある。いつかローズを絵にしてみたいと思った。だが、その絵を描けばローズがどこか遠くに行ってしまいそうな気がして怖かった。

　ロッカールームに入り、制服からジャージに着替え、蛍光ピンクのスパイクシューズの紐を強めに結んでいると、木製の扉が開き、ローズが入ってきた。
「ナツ、絵はもうすぐ完成しそう？」
「ううん、まだ。できあがるまでが楽しいの、夕べも遅くまでやっちゃった」
　夏美が熱心に絵を描くようになったのは、谷口透の一件があってからだった。
　あの時は、保健室でしばらく休み、呼吸は楽になったが、担任のあかね先生は、日頃の様子などから、軽度の対人恐怖症があるのではないかと思い、そのことを母の香住との面談の席で話したのだった。香住も思いあたる節はあり、思春期に向かっていく娘のこれからを考えると心配は尽きなかった。
「お母さん、どうでしょう、一度、セラピーを受けられては。ただ、心理カウンセラーとかとは違いまして、心の安らぎをもたらすことが目的で、それと自分への自信とか、尊厳みたいなことを宿すというか」
「少しお話が難しいのでよく理解はできませんが」
「好きなことを、思う存分させてあげる時間を作るのです」
「知人に絵画セラピーをやっている方がいるのですが、夏美さんは人と交わって何かをするより、自分の中にある何かを作り出す力みたいなものがあると思うのですが、それを、言葉という理屈ではなく、絵を描くことによって、心を自由に遊ばせてあげるのです」
「夏美さんにはもってこいの、治療、いや趣味になるかと。それに女の子から女性になる過程って何かとたいへんですからね」
　香住は先生の（病気なのよ、だから治療が必要なの）と言わんばかりの言葉にむっとしたが、何か手を打つ必要はあると思い直し、承諾した。

　夏美とローズは、グラウンドに出ると、ゆっくりとトラックを走り出した。走ることで気持ちが落ち着いていくのが分かった。隣にローズがいつもいてくれる安心感なのか、走ることの効果なのか、そんなことが脳裏に浮かんだが、どうでもいいこと、と思った。
「ローズ、あのコーナーから半周勝負よ」
「よぅしぃ、負けないわよ」
　ふたりはコーナーを過ぎると、腕を高々と上げ、膝の角度を蹴り上げ疾走した。
　風を切っている。風になっている。ローズと。
　ローズの背中はどんどん前へ行く。ふくらはぎが力強く大地を蹴っていく。ローズは、走りきると、穏やかにランニングした。夏美もローズの横に追いつき、ふたりは、砂地に寝転がり、空を仰いだ。

　中学生になった時、運動部の中で一番人気がなかったのが陸上競技部で、その中でも走るだけの短距離走は、もっとも人気が無かった。夏美にしてみれば、バレーボールやバスケットボールなどの誰かと仲間意識を持ち、みんなのためにやるスポーツは考えるだけで苦になった。ましてや人見知りでうまく自分を表現できないし、先輩後輩の関係も煩わしいし、また、パニック状態にならないとも限らない。
　ローズが、一緒に走ろうと言った言葉は、少し重かったが、「自由に」という言葉を付け加えたので、気持ちが楽になった。そうだ。自由に、鳥のように走ればいいんだ、と。

「トオルどうしてるだろうね」とローズがグラウンド脇のベンチに座りながら言う。
「トオル君、そろそろ学校来ないと、もうすぐ受験もあるし、早く来ればいいのに」
　夏美はそう言ったものの、見え透いた言葉に自分でも戸惑った。
「あたしたち、３人は何か特別な関係だよね、変な意味じゃなくって、みんなと馴染めないし、群れることが苦手というか」夏美が目の前を走り去る長距離ランナーたちの群がりを見ながら言う。
「トオルもさ、また走ればいいのに、トオルなら、高校行ってもインターハイ出場は間違いないのに」このわざとらしさはなんだろう。ローズは私のすべてを見抜いているように言う。ローズは、大切なものを易々と奪い去ってしまうのではないかと夏美は思った。あんなことがあって、そう簡単にトオルが学校へ来るとは思えなかった。
　ローズも、群れを追う。ひとつに群がり走りすぎていく集団。群れて泳ぐ青魚を思わせた。
「トオルは群れない、ローズも群れない、群れられない生き物なのね、それに私も」
　そう言って、夏美は、谷口透が５年生の時転校してきたあの日を思い起こしていた。

　谷口透は夏美がパニックを起こしたことがショックで、しばらく学校に来なくなった。
　ひとりでまったく知らない学校でどうしようもなく不安な気持ちを抱えていたのだろう。そんな気持ちを誰にも悟られまいと、背伸びしておどけてみせた。大阪でいじめられていたことで、転校を余儀なくされたことが、新しい学校で絶対分からないように、自分の姿を隠すように、挨拶をしたのだった。夏美はそんなことにまったく気づかず、ただ自分の拒絶感覚だけに執着し、自分の心を守ることだけを考えていた。いや、夏美も考えて反応したのではない。かってに心が拒否反応を示したに過ぎない。谷口の長い前髪は、自分の恐れる気持ちを隠すためだったのだろう。
　夏美は、学校を休んでしまった谷口が心配になり、先生とともに足を運んだ。
　謝罪を受けるはずの夏美が、逆に謝罪することになってしまったが、夏美は谷口の心の傷のほうが遥かに深く、つらいものに思えた。谷口が前の学校で、どんないじめにあっていたのかは知らないが、先生は、（前の学校で、いろいろあり、転校する以外に方法が無かった）というようなことを夏美に打ち明けた。
　谷口の家は郊外の借家だった。
　玄関先のインターフォンは壊れており、先生は少し隙間を空けたドアから訪問の意図を伝えた。母親はそそくさと、二階に上がり、トオル、トオルと谷口を呼んだ。
　谷口が玄関まで降りてドアを開けると、先生は言う。
「谷口君、転校初日からびっくりしたでしょ。でもね、そのままでいいのよ」とやさしくいい、
「初めての人は特に苦手で、言葉遣いとか距離感とかにも戸惑って、あんなことになってごめんなさい」夏美は素直に心の内を明かした。
「僕こそ、ごめん。できるだけ明るい方がたぶん友だちとかも出来る気がして、僕は、前の学校で、ヘビと呼ばれてたんや。目が細くのっぽでこの黒髪の変にさらさらしている感じがヘビみたい、と。ひとりの女子から始まって、クラス中から、黒ヘビなんて言われて」と透は、脱ぎ捨てたい過去の出来事を話した。
「いいのよ。もう学校変わったんだから、心配ないよ」と夏美はいい続けて
「トオルと呼んでもいいでしょ」
「ありがとう。僕はどう呼べばいいの。シンプルにナッちゃんでいいかな」
「うん」
　その翌日から谷口透は学校に来た。夏美が
「トオルありがとう、さん」と言うと「かめへんかめへん」と切れ長の目をへの字にして微笑んだ。

　中学校に入り、短距離走を始めたトオルの成長はめざましかった。細身で、長身で、足がキリンのように長かった。その長い足に、速く走るための筋肉が、日に日に付いていった。キリンが走り出し、風のように疾走すると豹に変身した。中２の春季大会では１００メートル走で大会新記録となった。長い前髪がまるでタテガミのようになびき走る姿に夏美は心を躍らせた。だが、長い足が不自然にも見え、流れる髪の毛の間から見える黒光りした瞳は、爬虫類を思わせた。誰かがまた、「毒へび男」と言い出した。「あいつに近づくと毒が回る」などとの中傷もあり、陸上部の部室のドアには「スネーク　シネーク」と赤い塗料で落書きされることもあった。
　そんなことがあっても、夏美とローズはいつもどおりにトオルと接し、トオルをなぐさめる言葉をいうでもなく、トオルもそれを苦にしている様子もなかった。だが、徐々に、言葉が、忌まわしい過去の毒ヘビが、谷口透の心まで浸食していった。毒が回るように。
　そして、決定的な事件があり、中学２年の夏休みが明けた頃から不登校になってしまった。

「ナツの絵が完成してからにしようか、トオルに会うの」ローズは、そう言って微笑んだ。夏美が毎夜毎夜、密かに描いている絵画の映像を見ているかの言い方だった。
「あれは、セラピーの先生から教えてもらったの、自分のために、自分の心の安定のために描いているだけ。トオルのためじゃないよ」
「にしても、トオルに見せるつもりなのよね」
　ローズは夏美の心の内をすべてお見通しといったふうに、微笑み返す。
「ただの風景画よ、森とか湖とか、沈む夕日とかも、何か心に浮かんだものを自由に、勝手に、想いのままにただ描けばいいの、だからさ、午後の授業は苦手なんだよね」と言って、ガクンと頭を垂れて見せた。

　こんなに自由に思いのたけを包み隠さず話せる存在。それがローズ。もしもローズがいなかったら、きっと自由になれず、あの忌々しい人見知りの虜のまま、中学生活を終えていたに違いない。ローズとトオルと私は、どこかに傷を抱えているもの同士なのだ。それでも時々思う。ローズは本当に傷を、癒えない傷を持っているのだろうか。ローズは、黒人と日本人のハーフで、日本で生まれ育ち、日本語で話し、時々訳の分からない英語のような言葉を使うが、肌の色が違うことで、誰からも相手にされず差別的な扱いを受けていると思っているのは、本当は夏美自身なのではないのか。トオルもローズも容姿でいじめられて、夏美は、誰にもからかわれることは無いが、ただ少し人見知りがみんなより強いだけ。もしかしたら、トオルとローズを見下しているのは、私自身なのではないのか、と夏美は思った。それが証拠に、ローズには緊張しない。ローズとは、争おうという気持ちが起こらない。それはすでに自分がローズより優れているとか、かわいいとか、そんなことを思っているのではないのか……。
　いや、だったらあんな裏切り行為をなぜしたのだろう。ローズの存在が憎しみに変わったからなのではないか。ローズに消えて欲しかったからではないか。

「ナツ、私に遠慮はいらないよ」とジャージの砂を払いながらローズが言った。
　夏美はドキリとした。やっぱりローズに見透かされている。ローズは私の本当の正体を知っている。私もわからない、自分の正体を。
「もう半周、今度は負けないわよ」
　そう言って、ふたりはまた有り丈の力で、駆けていった。

「夏美は最近どうなんだ」と台所でせかせかと動いている香住の背中に向かって浩一郎は不機嫌そうに言った。
「さっきまで、また、ローズちゃん家（ち）にいたんだって。勉強してたなんて言ってたけど、どうなんだか」
「あのハーフの子か。他に友だちはできないのか」と、ぶっきらぼうに言う。
「あの子は、大勢の友だちと付き合いができないのよ、そんなことあなた分かっているでしょ」
　浩一郎はビールをグラスに注ぎ、飲み干した。
「人付き合いができなくて、将来どうするんだ。仕事なんてどれもこれも誰かと繋がって誰かとともに何かを成し遂げるもんだ。医者だって石屋だって、そのつまり、患者がいたり、墓石を売る相手という者がある。俺だって、ケンコウ商事で、セールス三昧の日々だ。お前だってそうだ。スーパーのレジ打ちでも、お客さんと話したり、従業員と会話するだろう」
　香住は、鍋から肉じゃがを皿に移し、浩一郎の前にドンと置くと、また鍋の方に向き直った。
　浩一郎は、香住の背中をチラと見上げ、ビールを呻るように飲み干した。

　夏美は木製の画板の中の少年を見ていた。
　真っ白のランニングシャツに、よく焼けた肌がまぶしい。入道雲の間を突き抜けるように、少年が走っている。ふくらはぎの筋肉は痛いほど盛り上がって、夏美は何度も何度も色を重ね、重厚な質感を描いていった。
　トオルをヘビのようだとみんなが言うが、夏美は一度も思ったことはない。あの瞳は、とても澄んでいて、誰かを傷つけようとする刃の鋭さではない。あの目は、怪しくも美しい。夏美にはわからない過去があるにしろ、想像もできない過去があったにしても、人を汚す目ではない。むしろ、夏美には勇気さえ与える目なのだ。
　トオルは、走ることで、自分に纏わりつく過去の自分から逃げだそうと必死だった。だから、あんなに速く、あんなに美しく走れたのだ。それをどうして、群れ、たちは分からないのだろう。群れたちは、標的をすぐに見つける。群れない、子羊を。だが、子羊は、私やローズや透じゃない。本当の子羊は臆病で卑怯で、誰かをおとしめないと気が済まないし、群れから外れることをことさら怖れる。群れの中の暗黙のルールに従い、攻撃を開始する。トオルのような子羊もどきを見つけるや否や、手を緩めない。陰口などはまだ容易い。トオルは心のやさしい虎豹なのに。
　画板の絵の雲の端っこに、赤いバラの花が描かれている。深紅のバラ。時々藍色を塗り重ねたせいか、血の色にも見えなくはない。夏美は、ローズに抱いた、優越感のような感情に支配されている自分を恥じた。もしかして、私はローズを、見下すために、付き合っているのか。それが自分の本心なのかわからなかった。夏美は、バラの花の色に白を加えた。少しピンク色になったことを見て、バラはピンクが一番美しいと思った。

　浩一郎が久しぶりに単身赴任先から帰宅しているというのに、リビングへ行こうとも思わなかった。
　ローズと友だちになり、一度だけ、家に連れてきたことがあった。翌日からまた長期の出張だと、浩一郎は荷造りをするために家にいた。夏美の後ろをローズはついて歩きリビングに入った。ローズは、書類の整理をしていた浩一郎に挨拶をしたが、浩一郎は一瞥し、言葉も発さず舌打ちをしたのだ。
　それが、どんな意味を持つ行動だったのか。夏美はローズがどう感じていたのか怖くて聞いていない。ただ、浩一郎の全身から、灰色の煙のような嫌悪感があふれていたように思う。あの軽蔑したような行為は決して許せないと思った。
　浩一郎の単身赴任は十年前から始まった。ケンコウ商事の営業部長になり、東北中心に単身赴任していた。浩一郎が赴任先の秋田で、女を囲っていたことは、夏美だけが知っていた。いや確たる証拠があったわけではない。
　父に会えない寂しさは、最初の頃はもちろんあった。単身赴任先から帰ってくると、「パパお帰り」と一目散に飛びついていた。だが、浩一郎の衣服に不思議な毛を発見すると、なぜだか近づく気がしなかった。人間の毛髪ではない。何か、美しい獣の毛であった。
　家族という穏やかな健全なものとはかけ離れた妖しさが漂っているようで、父親というよりも猛獣と接するような危険な感覚が夏美の心に宿った。

　中２の春季大会のあと、ローズとトオルは、よくグランドで競い合った。ふたりの足に学校で敵うものがなかった。それでも、トオルは男子で、女子との体力差に勝てるはずではなかった。だが、ローズはいつも真剣勝負を挑んでいた。その姿は、人ごとながら誇らしいと夏美は思っていた。だが、ローズとトオルの真剣勝負を見ていた群れの中から「まるでハブとマングースだよね」という心ない言葉が広がっていった。
　夏休み直前の朝の教室は、静寂の中にあった。早朝から、夏美とトオルとローズは、走り込みをして、授業ぎりぎりに教室に入った。
　群れたちの、クスクスがゲラゲラに変わった。
　黒板一面には、乳房を持つ茶色いネズミのような生き物に白い鱗の細長い蛇が、巻き付き赤い舌を出した絵があった。
「だめ、ローズ、入っちゃだめ」夏美はそう叫ぶと、ローズを廊下に突き出した。トオルは、夏美の横をすり抜け教室に入り、黒板一面に描かれたハブとマングースの絵を見るなり、「おおー」とうなり声を上げ、黒板消し両手に持ち、暴れるように両腕を動かした。
　夏美はローズを押し出したが、ローズは、夏美を押し返し、教室の中に入った。
　ローズは、まだら色の黒板に人差し指で大きくDON.T WORRYと書き、トオルの手を引き、教室を出た。
　笑い声は消え去り、教室に静寂が戻った。女生徒がひとり立ち上がって黒板を丁寧に消し去ったあと、担任が何事も無かったように教室に入ってきた。
　夏美は、ふたりの行方が気になったが、そのまま、立ち上がれず、教室の椅子に座り続けた。ローズはトオルを守った。私にはできなかった。トオルは、ローズと同じくらい大切だと思っているのに、それは、本当は違うのだろうか。群れになじられ、いじられているのに、ローズは、ドント　ウォーリー、と。心配しなくていいよ、か。ぜんぜんそんなこと気にするなよ、か。あの言葉は誰に対しての言葉だったのだろう。ローズ自身に対しての言葉なのか、群れたこの教室のすべてのバカどもに対してなのか、夏美には分からなかった。
　中２の夏休みが終わったが、トオルは学校へ来なかった。
　ヒグラシの鳴く朝、担任は、トオルが転校した、とみんなに告げた。
　別れの挨拶もないままどこかへ行ってしまった。
　中学卒業後、ローズも大阪に引っ越した。ローズの母親が、大阪で店を持つことになり、ローズもついて行った。
　夏美は、ひとりになった。新しく高校生活が始まるが、人見知りの自分に、ローズや、トオルのような友だちなどできるはずがなかった。それに、短距離もやらなくなり、家に籠もって、休みの日は絵を描くばかり。それにしても、同じ絵を、同じ少年の絵をもう何枚描いたのだろう。少年の横には薔薇を描いていた。少年のふくらはぎの筋肉は、描くたび、躍動感に溢れ、実写といってもいいほどの仕上がりになっていた。
　絵は十枚完成すると、全部捨てた。そして、また、一枚、新しい紙に描くのだ。
　薔薇の絵は、ローズだった。ローズを描くと、どこか手の届かないところに行ってしまうのではないかという予感は現実のものとなった。ローズもトオルも、ふたりとも、夏美の前から、どこかへ消えた。たぶん、捜せばすぐに見つかっただろうが、ふたりの行方を、居場所を尋ねることはしなかった。

　高校の３年間はあっという間だった。
　友だちも作らず、走ることもしなくなった。人見知りは相変わらずだったが、しゃべらない子には、一歩も、誰も近づくな、という多感な思春期の暗黙の了解が漂い、こちらからアクションさえ起こさなければ、人は自然と近づかず、それでももっと人から遠ざかりたかった。
　夏美は、市営図書館で、ひとり期末テストの勉強をしていた。日暮れに帰宅すると、香住が電気もつけずに、テーブルに伏せていた。「ママだいじょうぶ？」と声をかけたが、香住は寝息を立て眠っていた。この頃はパートの仕事も深夜に及ぶことがあり、疲れているのだろう。浩一郎は、ここ半年はうちに帰っていなかった。
　香住は、テーブルから頭を持ち上げ「帰ってたの、ごめんね」と言って、夏美を見あげた。目の辺りが、濡れていた。
「猫の毛の話覚えている？」唐突に香住が聞いた。
「えっ？お父さんの？」と夏美は素っ頓狂に問い返した。

　浩一郎が単身赴任先の東北で、女を囲っていたことは、夏美だけが知っていた、と思っていた。いや確たる証拠があったわけではない。半年ぶりに単身赴任先から帰宅したとき、ズボンの裾にキラキラ光る毛があった。獣の妖しい色彩を帯びた毛で、一本や二本ではなかった。それが何なのか、夏美はわからず、浩一郎に尋ねると「猫の毛だ」と、言ったのだ。
　そのことを、香住に言ったのかどうか覚えていないが、あの猫の毛をどうして今頃になって覚えてるか、などと聞くのだろうと思った。
「お父さん、昔から動物が嫌いなの、大がつくほどにね。夏美が、野良犬を拾ってきたの、かわいそうだからって、うちで飼おうって、もうずいぶん幼かったから覚えてないかもしれないけど」と香住に言われたが、そんなことを言った記憶はなかった。
「父さんは、（生き物はだめだ、犬や猫など畜生だ。何を考えてるのか若りゃしない）なんて言って、野良犬をどこか遠くの山まで捨てに行ってしまったの」
　冷蔵庫がブーンと鳴った。
「あの動物嫌いが、猫をかわいがるなんて、不思議で仕方がなかった、ずっと」
　夏美は壊れそうな冷蔵庫の音が気になった。
「離婚届を、紙切れを一方的に送ってきたの、所詮はそれだけの繋がり、夏美が卒業するのを待ってからと、条件付きで、すべて向こうの言い分よ」
　夏美は冷蔵庫のジュースを今すぐ飲み干したいと思った
「猫の毛のことは、知っていたの、で、あの時も、問い正したの（取引先のお宅が上等の猫を何匹も飼っていて、仕事だから仕方が無いだろう）って言ってたけど、畜生だから何するかわからない猫に、あの人が近づくはずないもの。それを東北の訳の分からない女猫に、まんまとひっかかりやがって」と香住は急に声を荒げ
「ばかやろう、何もかも、勝手に、進めやがって」と言って泣きわめいた。
　夏美は、静かに、母の肩を抱くのに精一杯だったが、不思議と怒りも悲しみも湧き上がってこなかった。

　母は晩年、猫を何匹も飼った。一人暮らしは四十年あまりだろうか、一緒に住もうかと何度か誘ってみたものの（孝史さんに迷惑がかかるから、それに一人ほど気楽なものはないよ、それにね、かわいい猫ちゃんに囲まれてね）といって、野良猫を拾っては、面倒を見ていた。あれはきっと浩一郎への復讐なのだろうと夏美は思った。
　孝史とは、三十三歳の時に結婚した。銀行員の孝史は、夏美の働く図書館に足繁く通った。相変わらずの人見知りで、対人接触が少ない職業を、と香住は（図書館で本を整理する仕事なんか、夏美にぴったりじゃない）などといい、夏美も本に囲まれて仕事をしていれば、機械的に本を貸し出したり、整理したりする仕事なら自分にもできるはずと、資格を取得し、働き始めた。そこへ、通っていたのが、孝史だった。孝史は、銀行の外回りをする担当だったが、あまり営業が得意では無かった。孝史も人見知りで、しかも極度のあがり症であり、なかなか人とうまく話せなかった。営業に回らなければ成績が上がらない。何とか自分の欠点を克服しようと、本を読み漁っていた。本を読んだからと言って成績がよくなったり、あがり症が克服できるものでもなかったが、夏美のいる図書館に通い詰めた。
「ああ、のぅ、このこういう本探しているんですが」と受付していた夏美にメモを見せる孝史。そこには「あがり症克服の兵法」と書いてあった。
　夏美は、孝史の震えた字体がおかしくなり、思わず声を出してしまった。
　孝史は、照れ笑いを返したが、夏美は「『あがり症撃退五輪書』って本もおすすめですよ」と笑顔で返した。
　夏美は久しぶりに、自分が心地よいと思える人に出会った気がした。
「じゃその本をお願いします。ご、ごりんしょとかいうほん」孝史はそう言うと、夏美が推薦した本を数日で読み終え感想文をしたため、図書館の夏美に渡した。
　このようなことが何度も続いた。いつしか、それは読書感想文というよりも、恋文のようにただ、夏美を想う孝史の気持が延々と綴られるようになり、夏美も、素直な文面にいつしか心を焦がすようになっていった。そして、ふたりは結婚した。孝史は、銀行の仕事には向いていないと感じながらも、夏美との生活を守るために働き続けた。転勤も拒み続け、後輩はどんどん孝史を追い抜き出世していくのを見ていたが、それがうらやましいなどと感じたことは一度も無かったようだ。ついに子どもには恵まれなかったが、それでも孝史に出会えてよかったと夏美は心から思った。
　母の身を一番案じていたのも、孝史かも知れない。孝史は、猫の毛や糞尿の掃除に週末となると母のところへ出かけた。
　母が死に、そう間を置かず、孝史も、この世を去ってしまった。急性心筋梗塞で、あっけない最後であった。ひとりになってしまった。ひとりが好きなはずなのに。

　それから、三年後に、インターネットで偶然見つけたのが（ハブとマングース）という店だった。
　淡路島にどうして（ハブとマングース）の店があるのだろう。それは、もしもローズとトオルだとしたら、一番嫌な青春の一ページを、希望に満ちた自分たちの輝かしい希望の未来ともいうべき店の名にするだろうか。汚点であるはずの侮蔑的な名を使うだろうか。そう考えると、淡路島のあの店は、まったく偶然に誰か別の人が思いつき、店名をつけただけではないだろうか。それにしても、飲食店の名前ではない。よほど物好きな人でも、それは考えにくい。
　それにローズとトオルだとして、今更この私がのこのこと顔を出したところで、自分がまたひとりぼっちになったからと言って、彼らの前に現われたとして、どうなるというのか。彼らに会う必要があるならば、もっと真剣に捜していただろうし、簡単にたどり着いたはずだ。自分には彼らが必要ない存在と感じていたから行動しなかったのではないか。
　それに、孝史に出会えた。この上なく幸せな結婚生活ができた。それを胸にこれからの人生を生きていけばいいではないか。今更彼らの舞台に、過去の遺物のような自分が出現して何になるのか。
　夏美は、洲本行きの高速バスに乗った。空席が目立った。
　会っても会わなくても、彼らの消息を知らねばならないと考えた。四十年も時が経っているのだ。生きて会える最後のタイミングなのかもしれない。彼らと偶然に引き合わせてくれた見えない糸を、また誰かがたぐり寄せているようだった。
　昔観たハブとマングースのショーが脳裏に浮かぶ。自然の摂理の中で天敵となったわけではなく、人間の業欲のみによって引き合わされたに過ぎない。蔓延（はびこ）る毒ヘビを駆逐したいという人間の業によって遠い国からむりやり連れてこられたマングースを南の島に解き放った。だが、神の摂理によって争うことはなかった。人間の思い通りにはならなかった。彼らの住む世界は昼と夜に別れ、交わることが無かったのだ。見世物として決闘させることだけが目的となった。だが、ローズとトオルは、自然の摂理に従い、一つになった。見世物ではない摂理。だから彼らに会いたいと思う気持ちも夏美にとっては必然なことだと思えた。

　ローズは中学を卒業して大阪へ行った。夏美はローズの口から聞いて、居場所も知っていたし、連絡先も知っていたくせに、なぜ、なぜ今更会いたいのか。自分はどうかしているのだ。自分は最初からローズなど友だちとも何とも思っていなかったのだ。ローズが嫌いだった。あの忌々しい、馴れ馴れしい、優しい言葉も、思い出すだけで嫌悪が起こる。夏美は、誰とも交わらない。誰とも交わりたくない。それなのに、ローズは無理矢理に扉をこじ開けるように、やすやすと夏美の心に飛び込んできた。だから、学校という閉鎖的な世界から、物理的に毎日会うことの出来ない遠くへ、ふたりが行ってしまったことで、本来の夏美の心の安らぎがやってきた。群れない者同士でも、付き合いには苦痛が生じる。夏美は、まったくの孤独が一番心地いいから自分からは、ふたりを捜そうとしなかったし、捜す必要も無かったのだ。それが、なぜ今、ふたりに会いたいのか、無性に会いたいのか、なぜか分からない。
　夏美はリュックの中の丸めた封筒を取り出した。まもなく、神戸を通り過ぎる。六甲山が赤く見えた。
　閉じこめておいた少年の絵を見た。雲に突き抜けていく少年。髪の長い少年。瞳の綺麗な少年。筋肉質の少年。これは、トオルそのものだった。夏美は、あの転校してきた日から、惹かれていたのだ。あまりに心臓が高鳴ったのは、一目惚れだったに違いない。だから、あんなに胸が苦しくなって、泣き出してしまって……。
　絵は、もう一枚入っていた。茶色の小動物の回りを白いハブが取り巻いている。
　夏美は、うっ、と声を漏らしかけ、右手で口元を押さえた。それは紛れもなくあの黒板に描かれていた絵だった。
　谷口透は、夏美のものだ。初恋だった。中学校へ行ってもずっと離れたくなかった。彼のそばで、その横顔を見ていたかった。ローズさえ私たちの前に現われなければ、トオルは私のものだった。トオルはローズに惹かれていたに違いない。朝のロッカールームで夏美は確かにこの目で、谷口透の肩を抱き寄せているローズの手を見た。すぐに部室を出たが、ローズがトオルを誘惑しようとしていると思った。いや、夏美が知らないところで、もっと親密な関係になっていたのかもしれない。夏美はいたたまれなく、あの朝、誰もいない教室に侵入し、黒板に、あの絵を描いたのである。ハブとマングースの絵を。教室の群れどもが描いたように見せかけたが、ローズは気づいていたのだ。そして、トオルも。
　二人がどんな人生を歩んでいったのか夏美には分からないが、いつか、夏美が気づく時が来るだろうと、（ハブとマングース）の店を開店し、営業を続けてきたのだ。夏美には今そのことがよくわかる。あの店は、彼らの夏美に対する復讐なのだ。
　淡路島に鉄道はない。車か船でなければこの島には上陸できない。島に繋がる鉄道はなぜ出来なかったのだろう。繋がらない場所、知らない者同士が群れだって行けない場所、それが淡路島を特別なものにしていると夏美はぼんやり思った。
　夏美は明石海峡大橋から見える景色を目にしながら、あの日の事実を、あの日、自分がやったことを、ローズに抱いた侮蔑の感情を、思い起こしていた。今更謝っても、時間は戻らないし、あの日々は帰ってこない。

　細い路地を通り抜けると大通りに出た。横断歩道を渡った先に、（ハブとマングース）の店はあった。
　格子戸を開けると、四つテーブルがあり、観光客らしい女性がふたり並び、定食を頬張っていた。
「いらっしゃいませ」と、厨房からひとりの割烹着姿の老女が出てきて、
「どうぞ、お好きなところへ」と言った。
　夏美は、それが、ローズでは無いことを認めると、少し安心したように、だが、どうしようもないほどの寂寥感が沸き起こってくるのを止められなかった。
「どうしましたか」と老女は声をかけ、その場にうずくまる夏美の肩に手を当て
「ドント、ウォーリー」と声をかけた。
　夏美は、指で涙を取り除き、老女を見あげた。
「よく、いらっしゃいましたね」
「ローズ、ローズなのね」
　老女は、夏美をやさしく抱き寄せ、うなづいた。
　厨房から、頭の禿げた背の高い店主がのぞき、
「ようこそ、（ハブとマングース）の店へ」と言った。
　夏美は、封筒から絵を取り出し、テーブルに置いた。
　そこには、白いゴールテープが体に纏っているひとりの少年とふたりの少女が描かれていたのであった。
　店主はテーブルに置かれた絵を目にすると
「ありがと、さん」と微笑んだ。
「でも、ほんまにハブっぽいな、この頃の俺、今ではこの通りの禿げオヤジや」
「そんで、ようここに気いついたな、しても、ナッちゃんはかわらへんなぁ」
　と、トオルは、頭を掻きながら、ぽつりと話し出した。
「俺とローズは、偶然であったんや、大阪におったことも知らんかった」
　ローズが、汚れた白いエプロンをはずしながらうなずく。
「あの頃の記憶もあんまあれへん。学校いかんようになった理由も、ほんま鮮明におぼえてへん、ただ、恥ずかしかったんや、俺、ほんまにナッちゃんのことが好きやったから」
　夏美は、言葉の意味が飲み込めず、あの頃のように、動けなかった。
　トオルは、ビール瓶を冷蔵庫から出し「おでん、食うか」といいグラスを夏美の前に置いた。
「再開を祝して乾杯しよか」
　ローズがおでんを大きな鍋から移し、テーブルに置いた。
「俺は、みんなで一緒に走ってる時が一番幸せやった、ローズは、今こうして一緒におるが、腐れ縁っちゅうか、ほんま大阪で偶然おうてな、飲み屋で働いとったんや」
　ローズがグラスにビールを注いだ。
「ふたりに謝りに来たの、許されないことを私はしたの」
「夏美、いいのよ、何もかも、いい思い出なのだから」
　ローズは、おでんの皿を夏美の前に押しながら言う。
「だって、黒板のいたずら描きは、私の仕業なの」
　夏美はグラスを両手に大事そうに持ちながら言った。
「だから、そんなのもうどうでもいいことなの」
　ローズがやさしく言う。
「私は、トオルが好きだったの、あなたに獲られたくなかったの」
　夏美がそう言うと、ローズの目尻に深く入った皺がさらに深く微笑んだ。
「ま、そういうことや、俺ってモテモテやったってこと」
　トオルがまた頭を撫でる。
　奥から５歳ぐらいのカーリーヘアの女の子がグレーのジャージにピンクの靴を履いて駆けてきた。
「おばあちゃん、ジュースもらっていい」
　そう言って、冷蔵ケースに入っているオレンジジュースを手に取り、にこっと笑った。
「孫なの、娘が仕事から帰ってくるまで預かっているの」
　少女は、あの頃のローズによく似ていた。
「近くに住んでいてね、この子がいるだけで、もう十分幸せよ」
　夏美は、少女のピンクの靴を見ていた。それだけで、安堵していく自分を感じた。
　もうあの頃は戻らないが、この店には、いやローズとトオルには引きずっている過去など存在しない。夏美もなんだか昔のことなどほんとにどうでもいいことなのかもしれないと思った。ふたりの人生を変えてしまったのは自分のせいかもしれないとそんな奢った考えが自分の中にあったのだ。すべては、なるようになる。それもまた人生なのだろう。蛍光ピンクの靴の少女は、いつかのローズのようにグランドを駆け出す日が来るのだろう。
　ふたりの歩んだ四十年がどんな人生だったのか、それもハブとマングースのように見世物として誰かに戦わされて来た人生ではない。
　トオルの目は、何度も描いていた少年の面影はなかったが、とても柔和な瞳だった。それは二人が歩んできた道そのものの結晶であると夏美は思った。
　少年と少女の人生は、あの澄み切った空の下で、白いゴールテープを越えた時からスタートした。ただ、それだけが真実なのかもしれない、と夏美は思った。
　三人であの校庭のグランドを思いっきり駆け抜けたいと思う自分がそこにいた。
「お嬢ちゃん、名前はなんっていうの」と夏美は少女に訊いた。
「ナツ」と少女は、笑顔で答えた。瞳が黒く輝いていた。
　ローズとトオルは、ニコッと笑ってうなづき、夏美の目を見つめた。
　少女はオレンジジュースを手に持ち、また奥の方へ走っていった。
　夏美は、ピンクの靴を履いて大空を駆けていくナツの姿を、今すぐ描きたい、という衝動が抑えきれなかった。

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