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投稿日 | : 2024/10/02(Wed) 16:02 |
投稿者 | : 選者・長 朔男・榊原洋子・古道紀美子 |
参照先 | : |
特選7
モクレンの花は姉の香り
森永昌雄(大津市)
終戦から七十八年、日本人の心は先の大戦の悲劇を風化させてしまうのだろうか。
超大国のアメリカに対し、勝ち目のない戦争を(聖戦)として仕掛けた軍部の暴走を時の政治は何故、止められなかったのか!
昭和二十年四月初旬、当時五歳だった私は、母と三つ違いの兄、それに生後十ヶ月になったばかりの弟と浦上駅の待合室で、いつホームに入線してくるか分からない汽車を待っていた。大きめの防空頭巾が目を塞ぎ、幾度となく転びそうになりながら喧騒の待合室で兄と一緒に走り回っていた私は、母のいつもと違う沈んだ顔の表情が気になっていた。
軍需工場がひしめき合う長崎の町は、日毎にしかも昼夜を問わず、激しい空襲に見舞われていた。米沢高等工業学校(現、山形大学工学部)を卒業し、長年三菱造船所・長崎工場に勤務していた父は、この非常時体制下にあって会社で寝泊まりする日が続いていた。こんな状況の中、父は家長として責任を果たしたかったのか妻子を彼の実家がある佐賀県小城町(現、小城市)への疎開を決断した。
が、別れの当日、我が家に会社の車を回してくれたものの父の見送りはなかった。また、長崎を離れることで母には別の心配があった。それは活水女子専門学校へ通っていた私とは年齢が一回りも違う姉を家に残していることだった。
「お母さん、心配しないで大丈夫よ。そんなに長くはならないのでしょう!お父さんのお世話は私に任せてよ、本当に大丈夫だってば・・・。」前夜も不安がる母を姉は大人ぶって笑っていた。
ようやく汽車が始発の長崎駅を発車したという放送が流れ、待合室は安堵の声で活気づき、改札口付近は人で揺れ動いた。
ちょうどその時だった。「お母さ〜ん、マサオ!」甲高い声を駅舎内に響かせながら姉が走り寄ってきた。「あぁ〜息が切れそう・・・・間に合って良かったわ」額は玉汗でキラキラ光っていた。と、姉は紺地のスカートから大事そうにハンカチに包んだ白モクレンの花弁を取り出し「はい、香りのプレゼントよ」と言って、私の手の平に渡すとニッと微笑み、頬にエクボを凹ませた。
辺り一面にモクレンの優雅な甘い香りが漂い、付近にいた人達が姉に笑みを送った。
「二人ともお母さんの言うことをちゃんと聞くのよ」姉は私の鼻を軽く指で突き「頼んだぞ〜」と澄んだ眸で見つめた後、弟をあやしながら、母に赤く潤んだ目を向け無言の別れを交わしていた。
四ヶ月後の八月九日、長崎市に投下された原子爆弾は一瞬にして姉の命を奪った。その日、造船所内で執務中だった父は、強烈な爆風と大量の放射線を全身に浴びたため一年後、入院先の九州大学病院で全ての臓器の機能不全で死亡した。
父が亡くなると実家の叔父夫妻は「此処に何時まで居座るつもりなのかね」と母に早期の引越しを迫った。会社で次長職に就いていた父のお陰で何不自由のない家庭環境が根底から崩れ、そこに佇む母の悲しみと将来への不安は筆舌に尽くせないものがあったに違いない。
その年の十二月、母の実家がある佐賀へ移ることが出来た。独り暮らしの祖母の家は、古くて狭かったが彼女の我々親子四人への深い思いやりがどれほど有難かったか、子供心にもよく理解が出来た。
「疎開なんかしないで私たちも長崎で一緒に死んでいた方が良かったかも知れないね」たまに独りごちる母に「何ば言いよっとね。そいで武次さんや幸子が喜ぶと思うとったら大間違いばい」祖母の毅然とした顔で叱りつける説教に母は泣き崩れていた。
昭和二十二年、私は小学校に入学し、兄は四年生に進級、三歳になった弟も手がかからなくなっていた。そして二年後、縁あって隣の家で包装材の経木や割箸などの販売をしていた夫婦から店を譲り受けることになり、商売のいろはも知らなかった母が、気丈な祖母の協力を得て「折箱店」を開業、食堂や料亭、鮮魚店や青果店をこまなく回って得意先を増やしていった。国民生活が徐々に豊かになっていく中、店は繁盛し配達人を雇うまでに成長し母は零細ながら事業主になった。
世に言われる後家の頑張りのお陰で、私たち兄弟三人は大学を出してもらった。
後年、母は正月に必ず顔を揃える私たち家族に、決まってこう言って聞かせた。
「長崎に残してきた幸子が此処にいたらどんなに良かったろうに・・・」
その母は、九十五歳で天寿を全うした。
季節が巡り、モクレンの花を目にする頃、私はスカートのポケットからそっとモクレンの花弁を出して微笑んでいた姉を思い出す。
モクレンの花は、姉の香りである。