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第73回(2023)滋賀県文学祭_随筆部門_特選3 ただふたり 陸田京介
投稿日 : 2024/10/02(Wed) 16:53
投稿者 選者・長 朔男・榊原洋子・古道紀美子・
参照先
特選3

ただふたり

  陸田京介(長浜市)

 数年前まで観光客で溢れ、多種の言語が乱舞していた古都もその年はひっそりとしていた。近代的な建造物の前で雨脚の強さを感じながら、はやる気持ちが抑えきれず武者震いがした。やっとお逢いできる。
 鑑真に心を引かれたきっかけは陳舜臣の著書であった。三十を過ぎた頃、名前だけは知っているがどんな人物だったのだろうと思い始め、簡潔にまとめられた本はないかと目にとまったのが『人物・日本史記』であった。その中で鑑真の生涯を知り、以来、鑑真和上が我が心に住み着いた。
 京都国立博物館は激しい雨と流行病のご時世で、見る人影は五人ほどであった。展示会場に足を踏み入れると『戒律伝来記上巻』が目に止まった。唐招提寺所蔵の書で茶色く変色した紙に塁書の文字が力強く記されている。鑑真が伝えた戒律がどのように伝わったのかが書かれているのだろうが、横目で流し小走りで進んでいった。
 奈良唐招提寺の開山御影堂。その地に鑑真和上座像はふだん安置されている。毎年六月六日の開山忌舎利会でわずか三日間だけお目通りを許される。その他の期間は精巧に模倣した御身代わり像が参拝者の礼を受けることになっている。今まで三度唐招提寺を訪れたが、実物との対面は叶わなかった。
 だが、この日の朝、京都に来られていることを知った。
 2階の展示会場に入ると最澄の絵像が迎えてくれた。空海の座像も展示されている。最澄と空海は日本仏教の日本の巨大な幹であるには違いないが、その半世紀前、苗木をしっかりと定植させたのはやはり鑑真だろう。
 鑑真は、天皇の命を受け日本から来た二人の僧、栄叡と普照の熱意に打たれ、弟子たちに声をかけた。
「誰か正しき仏の弟子として日本に行ってはくれまいか」
と。誰も身じろぎしない。
 当時の船は今から考えればずいぶんぜい弱で、荒波を受ければ海の藻屑となる。文字通り命を賭す覚悟がなければ易々と引き受けられるものではない。誰も手を挙げない。
「なら、私が行こう」唐の仏教界の頂点にあった鑑真が自ら日本に行くというのである。鑑真は五十五歳であった。今の私と同年代である。未知の国のために力を貸せと言われても、命がけでそれを成し遂げる覚悟など持ち得ない。鑑真は自分自身の体内に赤々と燃える仏弟子の炎を未知なる地に伝播しようとした。鑑真という火種がなければ仏教そのものが根づかなかったかもしれない。
 だが、五度の渡海は困難の連続であった。
 第一回目の失敗は、ある僧に裏切られ海賊の一味という嫌疑で栄叡と普照が投獄されてしまう。第二回目の失敗は、遭難し座礁。第三回目の失敗、またもや密告により栄叡が投獄。第四回目の失敗、再び密告により渡航を断念。そして第五回目の失敗、この航海失敗はもっとも過酷であった。嵐に遇い前進できない。帆船は流されていく。四ヶ月もの漂流ののち、ベトナム近くの海南島まで到達した。ここから陸路を広州まで戻る。二千キロに及ぶ旅路であった。栄叡は道半ばで死する。鑑真も視力を失う。それでもなお諦めることはなかったのである。
 第十一次遣唐使が二十年ぶりに来た。遣唐大使藤原清河は玄宗帝に鑑真の正式な招聘を願う。だが、道士を同行させるならと難題言い、撤回した。本来あるべき仏教の形が歪められ兼ねないからだろう。
 大伴古麻呂は密航を決断した。四隻のうち第二船に鑑真を乗り込ませ出港し、ついに鹿児島へ到達したのである。難破し、遠くへ流され、多くの同胞の命を失い、自らも失明し、それでも決して諦めずついに渡海を為し得たのだ。
「なら、私が行こう」と、私ならそう言って誰かが、鼓舞され手を上げることを期待して待っただろう。駆け引きなど微塵もなくただ清らかな気持ちで、何度も何度も挑戦し続け、ついに辛苦の道を通り抜け日本にたどり着いたのである。
 鑑真は自らの使命として戒壇院、具足戒を整え、唐招提寺を拠点に正しき仏教の導きを日本に定着させた。
 鑑真の人生が終焉を迎えようとしていた。弟子の忍基は慕ってきたその顔、胸、角ばった額、顎の髭、尖った鼻、その指で、造っていく、盲目の眼も写した。遠き日も見通していたその眼。鑑真の姿を世に残すため造り上げた。傑作である。
 特別展示会場は長い廊下の奥の部屋。誰もいない。黒を基調とした広い博物館の特別展示室の空間。足を踏み入れると、鑑真和上は間接照明に照らされて浮かぶように坐られている。鑑真和上と私、ただふたり。顔を近づけると、そっと薄目を開き語りかけてきた。「ようやくたどり着いたのか」と、確かにこの耳の底で聴いたのである。
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