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投稿日 | : 2024/10/02(Wed) 17:18 |
投稿者 | : 選者・長 朔男・榊原洋子・古道紀美子・ |
参照先 | : |
特選2 (読売新聞社賞)
われは湖の子、さすらいの
木村敬子(栗東市)
私はかねてから計画していた徒歩での琵琶湖一周約二百キロに挑戦したが、途中で滑って脊椎を骨折して、そのまま入院となった。激しい痛みに襲われ、立つことも寝返りを打つこともできず、痛み止めの点滴を受けながらベッドの上で数日間過ごした。ぼーと天井を見つめていると、リハビリ担当の男性が現れ、早速ベッドの上でのリハビリが始まった。
一か月経ち、彼は私を車椅子に乗せて、初めて外に連れていってくれた。外はもう梅が咲き誇り、院内の日本庭園の大きな池がきらきら輝いていて、私はふと琵琶湖を思った。
「私、琵琶湖一周、踏破したいんです。もう無理ですね」
私は思い切って彼に話しかけた。
「僕と一緒に歩きましょう。僕は琵琶湖一周は三回しました。僕に任せて」彼はにこやかにそう言った。私はどんな琵琶湖一周になるのかと思った。次の日からのリハビリは最後の時間帯になり四時頃になると彼は歩行器を持って迎えにきてくれた。一周約五百メートルの池を琵琶湖に見立て小野の辺りから再開、彼は小野神社の拡大写真を用意してくれた。
「K(私)さん、じゃ小野神社にこれからの安全無事踏破をお願いしましょう」彼はそう言って私を写真の前に導き一緒に柏手を打ってくれた。そして、今日は初日だから、ゆっくりしたペースで途中で休憩しながら琵琶湖大橋を目指そうと目標地点を語り歩行器を押す私の後から支えてくれた。私は痛みを忘れるくらい気持ちがわくわくしてもう嬉しくて休憩する時間も惜しくなってひたすら歩いた。
「K(私)さん、凄いですね。足や腰は痛くないですか。一気に琵琶湖大橋まで来ましたね」彼はそう言って私を池のほとりのベンチに誘導し、今度は琵琶湖大橋西詰の拡大写真のボードをベンチの前の木に吊るしてくれた。そして、足腰のマッサージをしてくれた。感涙にむせぶ、今の私はまさにそれ、彼の横に座って彼のこんなにまで温かく優しい気持ちに触れて涙があふれてきてどうしようもなかった。一患者のためにこんなにまでしてくれる人がいるだろうかと甘美なしびれを感じた。
一日休んで次は堅田の浮御堂を目指した。この日からは杖で歩いてみることにした。彼は左後方から私を支え、一、二、一、二、と号令をかけてくれるのであるが、左足と左手が同時に出たりして歩き方がぎこちなくて疲れてしまったのでベンチで少し休憩をとった。彼が庭園入り口の自販機に行ってお茶を買ってきてくれた。二人で黙って池のほうを見ながらお茶を飲んだ。そして、また出発した。彼は今度は私の左横にきて腕を持ってくれた。
「K(私)さん、ほら、堅田浮御堂に到着しましたよ。慣れない杖での歩行、よく頑張りましたね」彼はそう言って拍手してくれた。そして、池の橋の松に浮御堂のボードを掛けてくれて、また足腰のマッサージをしてくれた。見上げると松の木の向こうに夕日が沈みかけていて「鎖あけて月さし入れよ浮御堂」という芭蕉の句がよぎって、ほんとうに彼と二人で琵琶湖一周をしているように思えた。この一瞬が一瞬でなく、ずっと続きますようにと私は橋の上で手を合わせた。病室に戻ってからも私はその余韻に支配されて、気持ちが高ぶり目が冴えて眠れなかった。
彼との琵琶湖一周も二か月近くになり、五月になった。総距離でいうと四十キロを超えた。いよいよラスト区間、出発したあの琵琶湖大橋東詰を目指すことになった。私と彼のビワイチの千秋楽、彼の吐息を背中に感じながら、黙って歩いた。この二か月近くの日々を思うとぐっと込み上げてくることばかりで会話などできなかった。休み休みに六週くらい歩いたであろうか。彼は私を藤棚に誘導し、
「K(私)さん、おめでとう。琵琶湖一周みごとに踏破、途中で投げ出さずに本当によく頑張りましたね。偉い」そう言って琵琶湖大橋東詰のお満灯篭のボードを吊るしてくれた。私と彼は一緒にその灯篭にゴールタッチした。
「Kさん、これは踏破した者だけに与えられる栄冠ですよ」彼は得賞歌を歌い予め用意してくれていた藤の花弦の冠をそっと頭にのせてくれた。そして自分の名前入りの踏破証を渡してくれた。それから固い握手、私はもう涙、涙、院内の池を巡る琵琶湖一周であったが咲き誇る花も梅、桜、つつじ、杜若、藤と日に日に表情を変え、池の水面に色を添える花びらやさざ波にも変化があり味わい深かった。
この三か月、いつも萎える心の横で優渥な心の伴走、決して私より前に出ることなく手を添えて励まし目指すものを持ち続けさせてくれた。入院してリハビリを受けていることも忘れてしまうような独創性とその篤行、彼のような人って他にいるだろうか。もう毎日が感動の涙とときめきの連続だった。彼は私を回復に導いてくれた魔術師。邂逅、そして今、熱涙の別れ、彼の作ってくれた花藤の冠、踏破証を持って。彼は私のこれからの人生の原動力。何か玄冬の淡い片恋のような気もする。