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第73回(2023)滋賀県文学祭_随筆部門_知事賞 ファイナルコンサート 馬渕兼一
投稿日 : 2024/10/02(Wed) 17:32
投稿者 選者・長 朔男・榊原洋子・古道紀美子・
参照先
知事賞

ファイナルコンサート

  馬渕兼一(野洲市)


 大型連休中久しぶりに里帰りをした娘が、「はい、これ」と言って一枚のチケットをくれた。「私、行けなくなったから、お父さんにあげるわ。職場に近いでしょ」渡されたそれを見ると、『びわ湖の春音楽祭 〜ウィーンの風〜 ファイナルコンサート』と印刷されている。
「おいおい、こんなコンサートなんて聴いても、俺、なにも分からないし──」
「じゃ、捨てといて」と娘。
 けれども、捨てるには勿体ない。それに、この日は出勤となっていた。まあ、一時間程度だから仕事帰りに覗いてみようか、とそんな気分になった。心地よいピアノを聴きながら一時間ほどぐっすり寝られる……というような軽い気持ちでいた。
 開演は午後五時から、それで、休日の業務を早めに済ませ駆けつけた。が、大ホールに入って時計を見ると、幕が上がるまでまだ三十分程度の時間があるではないか。眠るにはまだ早い。わたくしは、娘が予約してくれていた「1P─2」といういちばん隅っこの席で、縮こまって読みかけの小説を取り出した。そのうち大ホールは多くの人たちで混みあってきたけれども、幸いにも隣の席は空いたままだ。窮屈感からほんの少し解放されたように感じられ読書が進んだ。
 開演。最初に舞台に出て来られたのは、バイオリニストの男性であった。この方が起立されると楽器の前の皆さんが立ち上がられ、座られると皆さんも座られる。どうもこのバイオリニストは、管弦楽団のボスでいらっしゃるらしい。きっとこの方が寝転ばれると皆さんも寝転ばれるかも知れないと、その時は、変な妄想を膨らませるだけであった。
 続いて、以前ニュースで知った指揮者の阪哲朗さんと、阪さんに手を引かれた、目の不自由そうな黒いサングラスの方が登場された。このサングラスの方は、何度か深く御辞儀をされてから、阪さんの誘導により舞台ど真ん中のグランドピアノの前に座られたのである。どうもピアニストでいらっしゃるようだ。
 最初の演奏が開始された。受付でプログラムを貰いそびれたのでどんな楽曲か分からなかったが、阪哲朗さんの指揮の妙技に驚かされた。タクトを振られるだけかと想像していたのだが、指揮台で華麗に踊られているではないか。もしも仮に、管弦楽団に演奏者が居なくても、阪さんの舞の後ろ姿を眺めるだけで、素晴らしい交響楽が聞こえてきそうだ。
 わたくしはすっかり寝入るタイミングを逸した。
 その演奏中も、黒いサングラスの方は、ピアノの鍵盤のまえで、ただうなだれたままの姿勢。わたくしよりも先に、心地よい演奏に寝ていらっしゃるのではないかと思われるお姿だ。両手を鍵盤の上に置いていらっしゃるわけではなく、たらんと、腰から下に腕を垂らしておられる。おそらく何も知らない会場の人たちも、わたくしのように「この人、ほんまにピアニスト?」と思われたであろう。
 ところが、十分程経過した頃だろうか、黒いサングラスの方は、突然、その細いしなやかな指を鍵盤の上に走らせ始められた。急に何かに目覚められたように──しかし、頭はうなだれたまま、すぐさまグランドピアノが鳴り出した。まるで美しい人魚が、その指に突如恋を感じ歌い始めたように。手の動きに合わせ鍵盤が歓喜に飛びはね、そこからまことに綺麗な音色が歌声のようになって弾き出されてくる。
 こんなピアノ音、これまで聴いたことがないわ!飛び上がりそうになるくらい感激した。音楽に疎いわたくしも、それはもう幾度かピアノ演奏は聴いたことがある。娘も結婚するまで家でそれを響かせていた。が、これまで聴いていたのとは、まったく違うのだ。
 目が不自由なのにどうしてピアノが弾けるのか、ということよりも、どうしてこんなにも自在にピアノの人魚を喜ばせられるのか。そのことに驚愕して、わたくしは楽曲が何か分からないものの、ピアノの中に引き込まれていったのである。いや、美しい人魚に引き込まれたと言っていいかも知れない。
 帰って調べると、黒いサングラスの方は、梯剛之(かけはし・たけし)さんというお名前の有名なピアニスト。生後一ヶ月で失明されたものの、四歳からピアノを始められ、多くの国際コンクールに入賞されていらっしゃるのを知った。
 わたくしは、お名前すら知らずただピアノの音色に吸い込まれていったわけだが、感激の中で、心の目を曇らせて見えなくなっていたのは、自分自身であるように思われて、恥ずかしい気持ちを覚えたものである。
 ほんとうに自分を振り返らせていただいたファイナルコンサートであり、帰りは娘に感謝のメールを打った。
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