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12/12 (木) 題詠「怪」・鑑賞&批評「和」
投稿日 : 2019/12/06(Fri) 09:06
投稿者 フミコ
参照先
    
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次回  12/12 (木)    

鑑賞&批評 「和」
題詠    「怪」               
出題     蔦の道さん

※   ※   ※   ※   ※   ※

                
批評 「和」  詠草一覧 

1. 令和二年の県民手帳贖いぬ手帳提示なせば施設割引とう  さらら

2. 墓参りに行くとき通る近江八幡たねやあり和た与あり甘党われに  たかし

3. ただむきの不協和音は朝妻の乾電池より漏れてくる欝  蔦の道

4. 京和傘かうもりがさに押されしも舞妓芸妓になくてはならぬ  ひさお

5. 白和えに菊菜と柿とひじきの具友禅和えと末の娘名付く  ひらら

6. シジミ採る和船のおっちゃん手をふれば遠泳児童を掬いくれたり  フミコ
  (昭和中期 萩の浜)
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Re: 12/12 (木) 題詠「怪」・鑑賞&批評「和」
投稿日 : 2019/12/16(Mon) 20:47
投稿者 ひさお
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フミコさんへ
フミコさんの感性、表現力、適格な批評に対し、いつもうらやましく
、尊敬をしています。
今回たまたま素人がえらそうなことを言ってしまいました。それが
正しかったかどうかはわかりませんが、なんらかの参考になることが
もしあったとすれば幸いです。
私に対しても鋭い批評をお願いします。
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Re: 12/12 (木) 題詠「怪」・鑑賞&批評「和」
投稿日 : 2019/12/16(Mon) 10:48
投稿者 フミコ
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ひさおさんへ

詳しく親切なコメントありがたく読み返しています。
たしかにわたしの意図したことは詠えていないと思いました。
報告文書なら減点だと思います。
私、どこかが抜けているのか、鷹揚なのか、面倒くさがり屋なのか、頂いた批評は全部肯定的に受け止めるので、あるいは正反対のコメントがあっても自歌の生み出したものとうれしく受け止めます。
だからというわけでもないでしょうが、歌い方も読み方も中途半端だなぁと感じることがあります。

何とかせんとあかんと思う事。どうにもならんと思う事。
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Re: 12/12 (木) 題詠「怪」・鑑賞&批評「和」
投稿日 : 2019/12/16(Mon) 10:33
投稿者 フミコ
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たかしさん、蔦の道さん:
ありがとうございます。
着地点が絞られて安心しました。

今から70年ちかく昔の話です。
この時代、信じられないかもしれませんが上級生の決定は絶対で、
部落ごとに(今では差別用語になっていて使われませんが集落の事をそう呼んでいた。)小6、中3の動員には可能な限り従いました。
なので、学校からの依頼ではなく、各部落の保護者(この場合は漁師達)が自発的に、半強制的に見張り役をしてくれました。
ですから、イベント性はなく、単に夏休み生活の延長で、浜のどこにも保護者などいません。
砂浜がいつも視野にはいっているので疲れたり、休みたい者は自発的に砂浜へあがれました。
みんな結構泳げたし、事故も無かったと記憶しています。
ただ、問題が起こると学校へ知らされるので要注意でした。
ですから、手を振った子は顔見知りのおっちゃんにあいさつをしただけで救急性はほとんどなかったのです。

自分の足りない詠みを棚に上げて申し訳ありませんが
いろんな読み方があることをあらためて勉強しました。
心からお礼もうしあげます。
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Re: 12/12 (木) 題詠「怪」・鑑賞&批評「和」
投稿日 : 2019/12/16(Mon) 10:16
投稿者 ひさお
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6. シジミ採る和船のおっちゃん手をふれば遠泳児童を掬いくれたり
たかしさんのイメージされている状況は間違いなく、作者の詠いたいと意図した状況に近いでしょう。短歌が現実をそのまま言うものではないことは十分承知しているつもりです。
私の言いたいことは、フミコさんの作品が意図したことを正しく言いえているかどうかということです。私はそれにノーを突き付けているのです。
フミコさんの意図したことは
シジミ採る和船のおっちゃん掬いたりつと手をふりし遠泳児童を
となるのではないでしょうか。
「つと」は字数を整えるために入れました。
この改作で、おっちゃんと掬いたりの離れすぎが解消できる。
誰が何をしたかもはっきりする。
なんでもかでもはっきりさせることが必要とは思わない。けれども
この作品でははっきりさせることが必要と考えます。
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Re: 12/12 (木) 題詠「怪」・鑑賞&批評「和」
投稿日 : 2019/12/16(Mon) 09:31
投稿者 蔦の道
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あーあそうか。

あくまでも遠泳の中の偶然。
疲れた子が思わずしがみついたシジミ網。

おつちゃんがそのまま掬い上げた。
この図ですね?

そうすると、何人もの子が偶然に掬い上げられたとは言えない。

一人の子だけの偶然突発的な映像が、作者には強い印象だつたのだ。

ですね?

誰が手を上げたとか合図したとかを超えて、この突発的偶然は面白い歌の材料になりますね。
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Re: 12/12 (木) 題詠「怪」・鑑賞&批評「和」
投稿日 : 2019/12/16(Mon) 09:21
投稿者 蔦の道
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たかしさんお早うございます。

手網うんぬんは、戯曲だと思います。

シジミを捕る網の大きさを知りませんが、人間を掬い取る大きさではないように思います。

すなわち作者さんの大きなシナリオ戯曲ではないかしら?

こうあればいいなあ、楽しいなあ、という想像力の集結としてシジミ網で掬い取られる子供たちが映像化されます。

おっちゃんは巨人の立ち位置に置かれますな。

短歌は事実を丁寧にすくって詠うものもあれば、1を10倍に膨らませて詠う、あり得ないものを映像力で表現する・・などいろいろな手法があるようで、奥が深いですね。
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Re: 12/12 (木) 題詠「怪」・鑑賞&批評「和」
投稿日 : 2019/12/16(Mon) 08:00
投稿者 たかし
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蔦の道さんの想像、ていねいで説得力はあるけれども、
大いに矛盾がある。
もしも、学校の先生や父兄の乗る船が併走しているのであれば、
シジミ採りのおっちゃんは児童を掬ったりはしない筈です。
安心して自分の仕事にだけ集中しているでしょう。

また、事前にシジミ採りのおっちゃんに協力を依頼していた・・・
そんなことは、私は先ずなかったと思います。
この出来事(おっちゃんが児童をその手網で掬った)は
あくまでも偶然の出来事です。
だから作者の記憶に残っている。
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Re: 12/12 (木) 題詠「怪」・鑑賞&批評「和」
投稿日 : 2019/12/15(Sun) 23:27
投稿者 蔦の道
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煮詰まってゆく議論は面白いですね。

遠泳というのは学校のイベントであるはずですね。
子供は一人だけではない。集団で遠泳するんですよね。

そのイベントに、学校側としてなんらの保護対策をとっていないとは思えません。

恒例の行事として、並走する船もあるはず。
子供たちを守らねばならないから。

シジミ船も協力を要請してあり、イベントに参加しているはず。
琵琶湖のどの位置で遠泳をするのか分からないが、応援する父兄もいると考えると、広い頭ではなく、すぼまっている足の方ではないかしら?

あくまでも想像です。

遠泳で疲れた子供をシジミ船が掬い取って休息させる話し合いは当然あるはずです。

シジミ船もイベント協力なんですから、一艘だけではない。

ゆえに、おっちゃんに合図の手をふるのは、並走する教師たち・イベント主催者と考えられます。

作者は観客として、父兄として、イベントを観ていた。
作者の才能が想像力を膨らませて物語化もしていると読みます。
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Re: 12/12 (木) 題詠「怪」・鑑賞&批評「和」
投稿日 : 2019/12/15(Sun) 22:21
投稿者 たかし
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ひさおさんの:手を振るのは作者である・・の説、
私は、最初からそのようには読めなかった。
もし、そうならば、つまり作者が手を振って、それを見て、
和船のおっちゃんが遠泳児童を掬った・・・のであれば、
この作者の位置はどうなりますか?

もし、その説であれば、
1,和船の上のおっちゃん、
2,水の中の遠泳児童
3,手を振る作者(多分、砂の浜辺か)
この3点、三角形の形が出来る。
しかし、和船のおっちゃんは、シジミを採っているのだから、
浜の方はあまり注視していないだろう。
自分の船の周囲の水をみている。
その近くへ遠泳児童が泳いでいて、児童は目に入る。

作者が、そのおっちゃんや、泳いでいる児童から離れた地点から
おっちゃんに合図を送るとしたら、手を振っても駄目で、
大きな声で叫ぶ筈。

ですので、私は、三点ではなく、二点、おっちゃんと泳ぐ児童、
の二点での構成の作品と見た。
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Re: 12/12 (木) 題詠「怪」・鑑賞&批評「和」
投稿日 : 2019/12/15(Sun) 22:07
投稿者 ひさお
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6. シジミ採る和船のおっちゃん手をふれば遠泳児童を掬いくれたり
私も、最初文字を追うだけだとおっちゃんが手をふるようだが、最後まで読むとおっちゃんではないと理解できました。そうすると、この作品の場合は手をふるのは作者と考えるべきではないか。もっとも「おっちゃんに」と「に」をいれなくてはならないが。
遠泳児童が手をふるというように読むのは間違っていると考えます。
手をふる遠泳児童なら別ですが。
蔦の道さんの言うように一呼吸おいても、遠泳児童が手をふるとは
ならないように思う。
遠泳児童が手をるふることが、詩情のあるすばらしい作品とみなされることはよく分かるが、詠まれている文字からはずれているように思う。
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Re: 12/12 (木) 題詠「怪」・鑑賞&批評「和」
投稿日 : 2019/12/15(Sun) 22:05
投稿者 蔦の道
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助詞を省略する歌は沢山あるように思います。
読む人の直感に任せてもいいよね?

短歌は説明するものではないからです。
説明する短歌は短歌じゃない。

ひさおさんもフミコさんもたかしさんも全部正解なんじゃないかなあ?
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Re: 12/12 (木) 題詠「怪」・鑑賞&批評「和」
投稿日 : 2019/12/15(Sun) 21:55
投稿者 フミコ
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親切に説明していただきありがとうございます。

文字通り解釈すると、「手をふれば」の主体は「おっちゃちゃん」である。おっちゃんに分かるように誰かが手をふったのなら「おっちゃんに」とすべきである。かりに「おっちゃんに」とした場合、その主体は作者となる。「遠泳児童」ではない。
前半はよくわかるのです。
解らないのは赤字の部分。
この、主体が作者か遠泳児童かの違いは、作者である私にとっては大した問題ではないのですが、一般的に他の方の詠草を読む場合、重視すべき要点なのでしょうか。想像できる場面に大きな違いが出そうな場合は悩みますが…
私の鑑賞の仕方は割と安易に「かもしれない」とか「想像する」とか逃げを打っているのかなと思いました。
難しいです。
まだわかっていない気がしています。
同じようなことを繰り返すような気もしますが、どうかながい目でみてくださいませ。
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Re: 12/12 (木) 題詠「怪」・鑑賞&批評「和」
投稿日 : 2019/12/15(Sun) 21:45
投稿者 たかし
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6. シジミ採る和船のおっちゃん手をふれば遠泳児童を掬いくれたり
 ひさおさんの論、蔦の道さんの論、読みました。
 わたしの考えはお二人と少し違うので書いてみます。
 もとより、文法には弱いので、それは文法的に違う!と言われることも覚悟して・・・・
 例えば、この歌が、
 ●シジミ採る和船のおっちゃん手をふれば遠泳児童手を振り返す
 などであれば、最初に手を振ったのは、もちろん、おっちゃんの方だとはっきりと言えます。
 ただ、この歌は、その後の言葉、
 ・・・・遠泳児童を掬いくれたり
 です。この「掬いくれた」という言葉、これは何処に掛かるかと考えると、
 「和船のおっちゃん」です。
 和船のおっちゃん・・・(が)・・・掬いくれたり
 と、なっています。
 
 ひさおさんの言う、和船のおっちゃんが手を振った・・・という風に先ず、
 考えられるのですが、この歌の言葉は、そこで終わってはいない。
 結句の「掬いくれたり」までを読んで、そこまでの流れの文を考える必要があるのではないか。
 そうすると、
 文法的に、窮屈に言えば、この手を振ったのは和船のおっちゃんのように読める、
 となっても、その後、おしまいまでこの歌を読めば、この「手を振れば」は
 「遠泳児童」の方だな、と、
 自分の(読者)頭のなかで解釈できるように思います。
 ですから、12/13(Fri) 23:30に、フミコさんがコメントされていますが、
 「……よほど変でないかぎり詠みにも読みにも十人十色があっていいのではないか……」
 この考え方、私も同感します。
 私の歌で、例もあるのですが、長くなるのでこの辺で。
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Re: 12/12 (木) 題詠「怪」・鑑賞&批評「和」
投稿日 : 2019/12/15(Sun) 21:03
投稿者 蔦の道
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6. シジミ採る和船のおっちゃん手をふれば遠泳児童を掬いくれたり  フミコ
  (昭和中期 萩の浜)

私の読みとしては、「シジミ採る和船のおっちゃん」で、切ります。

一呼吸置くことによって、浮き上がった対象のおっちゃんに、遠泳を進行している側が手を振って20番の子、22番の子を掬ってもらう・・という場面と読みます。

大事なのは、おっちゃんで一呼吸切ることです。

シジミ船のおっちゃんよ~と呼び掛けているのが分かります。

助詞がなくても分かります。
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Re: 12/12 (木) 題詠「怪」・鑑賞&批評「和」
投稿日 : 2019/12/15(Sun) 20:13
投稿者 ひさお
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6. シジミ採る和船のおっちゃん手をふれば遠泳児童を掬いくれたり  
短歌の勉強のためにしつこいようですが、敢えて再度言います。これはいやがらせではなく、真に短歌の勉強のためなので誤解なきよう願います。
どんな作品にしろ、先ず作者の表現している文字から外れずことなく
何が・誰がどうして、どのように感じたのかを読み取ることがが基本であることは言うまでもない。それがベースになって読者がさら
にその内容をより一層高めるような解釈をする。それは読み手の力
を示すものです。しかしその場合、読者が勝手に作者が言っても
いない主語・述語を作り替えることはだめだと思う。
さて問題の作品。
文字通り解釈すると、「手をふれば」の主体は「おっちゃちゃん」である。おっちゃんに分かるように誰かが手をふったのなら「おっちゃんに」とすべきである。かりに「おっちゃんに」とした場合、その主体は作者となる。「遠泳児童」ではない。
したがって「遠泳児童」が手をふったことにはならない。
遠泳児童が手をふり掬われたり(つまりがを入れる)とすれば問題ないが。
このように考えています。
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