タイトル_koujitu

  

「好日」譜

原稿用紙と万年筆と好日誌

「好日」は昭和27年(1952年)に米田雄郎によって創設された短歌の結社です

「好日」の発足

米田雄郎が「好日」創刊号を発行したのは昭和27年1月。その前年の昭和26年4月に師の前田夕暮が亡くなっている。
雄郎は前田夕暮が「詩歌」を創刊した明治44年に21歳で「詩歌」に入社してから前田夕暮を唯一の師として約四十年間師事し、行をともにしてきた。
***「好日」創設前後***
◆昭和26年4月20日、師の前田夕暮逝去(享年67)その葬儀で雄郎は門下生代表として弔辞を述べている。
◆昭和26年5月、夕暮の長男透が荻窪の自宅(白日社)(東京都杉並区荻窪1の165番地)に帰住し、白日社および「詩歌」を継承する。
◆同年九月「詩歌」夕暮追悼号を発行。
◆昭和27年1月、雄郎は郷里の近江にて「好日」を創刊。
このときの創刊号はガリ版刷りの20頁のもので、詠草を出しているのは54人。
志賀龍(米田登の別名)が「今日の短歌」という論文を一編書いている。
表紙の裏面に「巻頭言」がある。そこには
「吾々はきびしい現実にさらされている。現実がきびしければきびしいままに吾々はせめて一日なりともたのしい生活を持ちたい。そうした意味から「好日」と名づけたのである。」と「好日」の名前の由来を説明している。
編集の中心に居たのは水清久美と米田雄郎の二人。
なお「好日」創刊後も近江の雄郎の門下生たち(雄郎に「歌つくれ、歌つくれ」と、短歌に導かれた人たち)の多くは前田透が継承した「詩歌」にも作品を発表している。作歌に導いてくれた雄郎の「好日」と、今まで作品を投稿してきて愛着のある「詩歌」と、その両方に作品を送っているのである。

その後の「好日」と「詩歌」

雄郎没後の「好日」

米田雄郎は「好日」を創設して六年後の昭和34年3月、69歳(満68歳)で亡くなる。雄郎の二男、登は中学生の頃から作歌を始めていて「好日」にも志賀龍のペンネームで論文を発表したりしていた。
米田登の歌集「時空界面」巻末の「略歴」には「昭和34年(登このとき40歳)三月、父の死亡により編集委員制となった「好日」の編集発行名義人となる」の一文がある。
そして、この年その後長く「好日」の編集の本部として使われることになる大阪府茨木市南春日丘3-3-23に登は自宅を新築した。
◆登が雄郎から受け継いで編集発行人となった昭和34年の「好日」(九月号)の総出詠者数は151人。
◆翌年の昭和35年の第九巻「好日」1月号には編集委員制となった「好日」の陣容を紹介するページが巻末にある。
○顧問:斎藤清衛
○編輯委員:矢嶋歓一・久保田安治・米田登・水清久美・生駒あざ美の五人
○各支社の責任者:東京:松村君代・遠州:野末一・三重:田中淡月・湖北:小川寿雄・長浜:佐金康成・犬上:壬生文提・愛知:小西久次郎・八日市東:城敏子・八日市西:長門加余子・蒲生:山口真哉・八幡:中江光教・甲賀:藤岡正浩・水口:福原みよし・柏木:佐々木堯信・貴生川:野口真・甲西:倉本幸子・草津:森田恭三・石山:小幡志郎・大津:伊藤雪雄・高島:志連政三・京都:松江きぬゑ・豊中:西沢貴美子・尼崎:上田久子・大阪旭・磯村満代・神戸東:花村嘉代・神戸西:橘ゆみ子
さらにそのページには「好日山荘(34・10・25・撮)」として、茨木市に新築したばかりの米田登の家の写真が載っている。

その後の「詩歌」

昭和26年の夕暮の死去の後、「詩歌」の発行は透が引き継いでいたが、昭和32年、第37巻5号にて「詩歌」は約十年間の休刊となる。父の夕暮の時代にも「詩歌」は二度の休刊(大正7年と昭和19年)をして、二度とも復刊している。
その後、約10年を経過して昭和42年(1967)1月、「詩歌」は前田透のもとで第三次の復刊をする。
「詩歌」の前田透と「好日」の米田登は、共に父の創設した短歌結社を引き継いだこと、また戦時中は将校として外地に赴いたこと。そうした共通点もあってか、二人は親しく交流していた。
みごとに復刊を遂げた「詩歌」は、順調に会員を増やし有望な歌人を育てていたが、昭和59年、透が交通事故に遭って突然亡くなる。
「詩歌」はその推進力を失い廃刊が決定する。この後、透の弟子たちは、おのおの自らの結社や同人誌を立ち上げた。井辻朱美や林あまりの「かばん」角宮悦子の「はな」などがその代表である。

昭和から平成へ

昭和から平成の「好日」

「昭和」は64年の1月7日までで、1月8日から「平成」となった。
「好日」は順調に会員を増やしていた。この昭和末期から平成へ掛けての頃、編集委員制となっていた「好日」を指導していたのは
米田登、伊藤雪雄、中野照子、小西久二郎、城敏子、神谷佳子、古木さよ子、西村恭子、辻信子、益永典子、福岡勢子の11人の委員、そして米田京子が補佐的にかなりの仕事をしていた。
そしてこの頃(昭和60年頃~平成15年頃)が好日誌の厚みがもっとも厚い、つまり会員数が最高になっていた時代と言える。
平成5年3月20日、それまで好日をその誠実公正な人柄と理知的な歌論によって引っ張ってきていた米田登が亡くなる(享年75)。
しかし登によって編集委員制に移行していた「好日」は、登亡き後も体制が堅固であり、会員も減ることなく今まで通りの発行・運営を続ける。
この平成5年の1月号の登録会員数は466人、詠草出詠者の総数は369人である。

平成の30年

女性の増加と歌風の多様性

この項、書きかけ・・・・・・・・・あああああああ

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