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10月
投稿日 : 2016/10/03(Mon) 07:28
投稿者 たかし
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オクトーバーが来ました。英語でオクトパス・・タコ
タコの月ですね。
10月号、昨日来た。昨夜は多くの人が読書されていたと思う。
いい記事が多かった。
1234567>
Re: 10月
投稿日 : 2016/10/20(Thu) 00:24
投稿者 のりこ
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わかる歌にも、わからない歌にも、良い歌はあります。
うまくわからなくても、この歌は良いと思える時、自分でも気づかない自分の
心が歌を感じ取っているのだと思います。私たちの心は自分でわかっているよ
り深い。好きな歌は、はっきりわからなくても「またいつかね」と大切にしたい。

歌をつくる立場でいうと、日常的な言葉や内容では言い表せないことを
歌にしたいと思うことがあります。これって、まあ、あたりまえですよね。
読む立場でいうと、言葉や内容が一般通念の範囲におさまっていてくれない歌
はわかりにくい。ところで、「短歌時評」で井上和があの3首を挙げた理由はなんだろう。どこか惹かれるものがあって挙げたのかもしれない、などと深読みし
たりする。(和さん、これ読んでたらお返事ください。)

読みの問題や日常生活詠についてはいろいろ気になっていました。だから、
こんなふうに率直に話し合えるのはとても嬉しいことです。たかしさんの
人徳です。結論が同じにならなくても、この言葉のやりとり自体が貴重なの
だと強く思います。
はなゆきはん、疲れとる場合じゃないで〜。
と書きつつ今日はワタクシへとへとでまとまりません。たかしさんの危機感についてもわかるところがありますが、また別の日に。
私はもう今週は余裕がありませんので来週お邪魔いたします。
さよさん、なかさん、由紀子さん、話題がこのようになってしまいましたが
よろしく。
他の皆さんも。              おやすみなさい。
レンラクです
投稿日 : 2016/10/19(Wed) 20:25
投稿者 たかし
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この「10月」のスレッド、「返信」数が現在91となりました。
99になると、スレッドごと「過去ログ」へ移動して
しまいます。
そうならないように、95になったら、次の人は
「返信」で書かずに、「新規スレッド」を立ち上げてください。よろしく。
はなゆきさーん
投稿日 : 2016/10/19(Wed) 20:13
投稿者 さよさん
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ここんとこ忙しくて、好日の校正と歌人協会の会報づくりと続けてあって
はなゆきさんが書き込みしたのに参加できなかった・・・
「紫の葡萄を搬ぶ舟・・」について女性にとって時代、地方独特の閉鎖性
などがあって抽象でしか詠めないものも少なくなかったは納得です。
よい歌は生活詠であれ、抽象的な感性の歌であれ、のちの世に必ず残ります。
共感し、感動すれば。
はなゆきさん、また来てね。
Re: 10月
投稿日 : 2016/10/19(Wed) 19:56
投稿者 たかし
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つづきを書きます。
その前にさっきのコメントを少し訂正します。
蕗子歌「紫の・・・」を私は分からない・・と書いたのに、
「この歌についてはいい歌だと思いました」と書いていますが、
これは矛盾していると自分で思うので取り消します。
今のところ、この歌については、のりこさんの解釈が
いいな、と思っている段階です。
そして、はなゆきさんが私にキッと問うておられる
「最後の数行は「紫の・・」の歌に対する批判でしょうか?
については、これは違います。蕗子の歌については前の方で
書いていて、その部分は字数制限のために削除した・・・
のが実際で、
あのコメントの後半部「以下は私の考えたことです」・・・
は、十月号の井上さんの「短歌時評」を読んで、触発された
ものですが、こうした考えそのものは、以前からあって、
前回のWEB歌会の前だったか、後だったかに、
好日5月号で宮田洋三さんが書いていた一首鑑賞の文章、
「一体、一首の歌から読み手それぞれが物語を作れる歌が良いのか、
全ての読み手の美意識が収斂するような方が良いか。
私は後者を好む。」に関連していろいろ語ったと思いますが、
これにも多少関わっていると思っています。
はなゆきさんは歌を上げて・・・と言われていますが、
それは堂園昌彦歌集からあげられていた五首などに、私は
先ほど書いたことを思ったのです。
また、好日十月号(ほんとに今月号は実り多かった)
の「歌壇作品評」は竹内典子が書いているが、そのなかに、
加藤治郎の歌
〇鏡の断面/みどりの川に手をひたす/iphone果しないアップデート
を評しています。この評はうまいと思いましたが、
この歌については、10人の人が居たとして、おそらく10人とも
??何のこと??
ではないか。私はもちろん??でした。
しかしのりこさんは読み取った。これは0.1ではなくて0.01くらい
の確立、つまりこの歌は、100人に1人くらいしか読み取れないのでないか。
こういう歌をどんどん進めていく方向に短歌の未来が
あるのだとすると、私は頭が痛くなってくる。
Re: 10月
投稿日 : 2016/10/19(Wed) 18:39
投稿者 たかし
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はなゆきさんへ、実は「大衆を離れる」で長いのを書きましたが、
これはもっと長くて、最初に安永蕗子の歌についての私の意見を
書いていたのです。
しかし、この掲示板の字数制限に引っかかって、
投稿できず、前の部分、安永蕗子の歌のところを削除したのです。
それで突然別のことを話し始めたことになってしまいました。
しかし、全然別のことではなくて、関連性はあるものと
思っています。
〇紫の葡萄を搬ぶ舟にして夜を風説のごとく発ちゆく
については、のりこさんの「読み」は相当迫っていると思いました。
私はとてもああいう風には出来なくて、「紫の葡萄」というのが
昔、秀吉の時代に朝鮮半島の方から大阪に入ってきた葡萄があって、
それを「大阪紫葡萄」と言う・・・などと、見当違いのことを
調べたりしており・・この歌についてはいい歌だと思いました。
ただ、「歌は大衆を離れたら滅ぶ」という
伊藤雪雄(他の方も名前だけにしているので今後こう表記します)
の説は、大事で、短歌をつきつめてゆくと、特に
専門歌人は(この言い方も雪雄流)自分だけの境地へと進もうとします。
これは歌人だけでなく、芸術全般に言えることと思います。
画家や詩人、音楽家等がそういう誰もがついていけない方へ
進もうとするのは自然の感情なのではないかと思います。
「短歌」をそうした絵画や音楽と同列に考えれば
よいのかどうか・・ということを(雪雄説は)言おうとしたと思う。
短歌という短詩形文学は、作者イコール読者であります。
例えば絵画を考えると、絵画の愛好者(美術館に見にいったり、
絵画や画集を購入したりするのは、必ずしも自分も絵を描いている
人)とは限りません。また音楽でも、コンサートへ行ったり、
音楽CDを買ったりする人が必ずしも自分も楽器を奏しているとか、
自分も作曲をしている・・とは限りません。
しかし短歌の場合は、作者イコール読者の図式が現在の
情況です。まったく普段短歌に親しんでいない人が、突然歌集を
購入するとか、はちょと考えられません。
このことは一応、頭に入れておく必要があります(短歌は大衆をはなれたら滅びる・・を理解するためには)
ここで一旦、止めて考えを整理します。
Re: 10月
投稿日 : 2016/10/19(Wed) 17:07
投稿者 はなゆき
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西村考史さんへ

最後の数行は、「紫の葡萄を搬ぶ舟…」に対する言葉への批判でしょうか?
歌を出して直截に言っていただければ有難いのですが。

わたしは、この歌の「風説のごとく」は問題あるのでは(議論されるところかも、と書きました)と思います。一方、歌が静かで、この一首の言葉にたどり着くまでの長い時間、静かなエネルギーを感じます。濃縮された何か、何か分からないが思いを感じます。だから繰り返し読んだのだと思います。

単なる言葉遊びの歌と対極、は大げさにしても一線を画すと思います。
女性にとって、時代、熊本(熊本に限りませんが)、地方独特の閉鎖性などなどあって、抽象でしか詠めないものも少なくなかったと思います。

やはりweb上は疲れます。
これでしばらく退場します。
大衆を離れる
投稿日 : 2016/10/19(Wed) 08:20
投稿者 西村考史
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今月号「好日」21ページ「短歌時評・・井上和」、
「何のための表現か」という文を読みました。
堂園昌彦歌集『やがて秋茄子へと到る』と
真中朋久歌集『エフライムの岸』の作品を取り上げている
吉川宏志著『読みと他者』を読んだ井上は、その二冊の歌集を読んだ。
次のような作品を上げて「何のための表現か」と問うている。
まず吉川が上げた堂園の二首
〇秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは
〇僕もあなたもそこにはいない海沿いの町にやわらかな雪が降る
井上が上げた堂園の歌三首
〇完璧な白シャツを着て虹の日のあなたの猫にお触りなさい
〇君を愛して兎が老いたら手に乗せてあまねく蕩尽に微笑んで
〇僕らお互い孤独を愛しあふれ出る喉のひかりは手で隠し合う
これらの歌について、井上は
「短歌は方程式を解くように解くものでないことは分かっているが、
読者としては、提示されている言葉を拠り所とするしかない。
中津昌子は、<一首のなかで自由に遊んで>と言うが、ということは
どうとられようといいということか。自分の思いは伝わらなくても
構わないということか。何のための表現か、・・・・」
と言う。
まったく私西村、この意見に共感したのです。
もうひとつの『エフライムの岸』の上げられている歌は吉川二首
〇猫の手も借りたいといひ安価なれば外国人でもよいと言ひかへる
〇この条件では食つてゆけぬといふ男にいくたびかとどまれと言ひたり
井上上げる三首
〇解雇告げるこゑ隣室にしづかなりしづかなればなほ響きくるなり
〇向かひのビルの三階の窓いちにちをモニタ五台とむきあふ男
〇仕様書が書けて英語のできるやつが欲しい技術者といふのは要らん
これらの歌には共感を示した感想・・
「言葉が意味を見せ、潤った手触りがある。読む楽しみがある」
と書いている。
私はいま、伊藤雪雄先生の言葉
「短歌は大衆を離れたら滅ぶ」・・この言葉を思い出しています。
以下は私(西村)の考えたことです。
短歌は言葉で出来ている、
言葉というのは、どんな言葉もイメージを喚起する輪を
外側に持つ。言葉によっては、その輪が大きかったり、小さかったりするが
短歌を形作る言葉たちも、そのイメージ喚起の輪を持っていて、
その輪同士が、接点をもっている。
あまりに輪がくっつきすぎて同心円みたいになった歌は、解り過ぎて
説明的で面白くない。
この輪の接点が、非常にかすかで、ある小さな一点で繋がっている
ような歌は、一読では分からないが、何度も読んで分かったり、
よく分かっている人の助言があって分かったりする。
こういう歌は私はよい歌だと思っております。
しかし、この輪(イメージ喚起力の輪)がどこにも
繋がっていないばらばらの歌は、「分からない」と言うしかない。
そういう歌でも分かる読者が稀にあるが、それはその読者の持つ、
言葉のイメージ喚起力が大きいために、読者の輪が、そのばらばらの
言葉の輪を補って繋げているからだと思う。
そういう読者は限定されている。
そのような限定読者の「イメージ喚起力」に依存しなければ成り立たない歌は、
どうなのかと私は思う。
Re: 10月
投稿日 : 2016/10/19(Wed) 01:28
投稿者 のりこ
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はなゆきさん、毎度のことながら思わず反応してしまいました。

同じ歌集にこんな歌もありました。
○しづまらぬ心抑へて坐るとき売り場小さき枷具(せめぐ)のかたち
○売りあげし銭を数へて夜を更かすおほよそに浄き生きと思はず
これを読むと
◯泡だてて白き卵を嚥むときも卓に聖女のごときひだり掌
が一層女性の実感として感じられます。
白い卵を(他の生命を)泡立てて嚥みこむような野太い事をしている時も、
卓の上で何も気づかない聖女のような左の掌よ。
左手って右手より優しくてきれいなんだよね。働かないから。
というふうに私は読みました。肉体労働者だった私としてはちょっと
身につまされる。

○紫の葡萄を搬ぶ舟にして夜を風説のごとく発ちゆく
この歌は大好きだけどわからなかったの。
まず映像が浮かんだ。「風説」のところで心がざわざわしてぐっときた。
(澄子さんのお宅から無断拝借)それだけだったんだけど、
でも、はなゆきさんのコメントを読んであっと思った。主語は私なのね。
私は今、紫の葡萄(=精神の貴重な果実)をはこぶ舟であり、
実体のない杳い風説のように夜の岸辺を発ってゆく。
これって歌をつくるときのことではないかしら、と今思いました。

いや〜、はなゆきさん、楽しいけどしんどい。
蕗子さんに笑われてます。
挑発したのは私じゃなくて蕗子さんですね。

別の事もう少し書きたかったけどここまで。ダウン!!寝る。
正直に言うとわからない!
投稿日 : 2016/10/18(Tue) 19:32
投稿者 はなゆき
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のりこさん、たかしさん
反応?ありがとうさんです。

◯泡だてて白き卵を嚥むときも卓に聖女のごときひだり掌
○紫の葡萄を搬ぶ舟にして夜を風説のごとく発ちゆく
○むなしくて心冷たく居りし夜を指ほどの稚鮎食ひて眠りぬ

思い出しました。見ると、ああ何回も読んだな、とまるでボブディランの歌ではないが、きっと分からぬままに繰り返し読んだのだと思います。当時の空気感もそのまま思い出している。特に一首目二首目は、そうだった、そうだったと懐かしい。

安永蕗子の名を外したら、二首目の「風説のごとく発ちゆく」は議論になるところではない?ネット上ではここまでしか言えないけど。

主語は私ですよね、私は「紫の葡萄を搬ぶ舟」で、「風説のごとく発ちゆく」、と解釈。〈「風説」世間のとりざた。うわさ。〉(岩波国語辞典より)。「風説のごとく」って……?舟は葡萄を搬ぶ、感覚として重さがある、風説…、(説は中国語では話すという意味だけど、関係ないか)は軽さがある、作者自身にとっては深刻かも。
・・・〈私にとっては、上手いし格調がある、けれども……感動的ではない〉・・・とも言えない、なぜなら、どうしようもない孤独感に陥ってしまった時に、ズシーンと涙が出るくらい感動してしまう何かを秘めている感じがする。
そこがこの人の魅力かもしれない。このことはつまり、深く深く下りて行って、底を流れる孤独感の中で生まれたもの。

多賀さんはそれを感じとっていた!

アルコールが入って調子に乗りすぎ?
何を言いたいのか訳分からない。

一首目、清濁両方を合わせ持つ人間、というより動物的な面と聖女の対象。「ひだり掌」に関して誰かの解説?、批評?を読んだ気がしますが覚えていません。そして「聖女」。感動的かと言えば、うーーん、考えてしまう。一首目よりは二首目が何かありそう。

これは高野公彦氏に言葉に沿って批評していただくしかない!高野氏の批評は、あくまでも言葉に沿って、です。

のりこさま!難しい歌ばかり出さんといてや!挑発のごとし!

やはりweb歌会に如かず。壁を取っ払えない。見られている緊張感あり!ですね。

この言葉で大丈夫かな…と考えていると来年になるので、エイヤッ!とアップしてしまいます。酔ったついでに。

のりこちゃん!うまいことフォローしてね!
Re: 10月
投稿日 : 2016/10/18(Tue) 08:34
投稿者 たかし
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はなゆきさん、どうも〜〜、感謝です!
こないだも、同人誌Vの例会で大坂へ、大阪の地下通路は何回、何十回
行っても私には闇の暗黒の迷路で、往きも帰りも疲れ果ててしまいます。
こないだも少し風邪気味で熱っぽくて二次会を断り(いつも断っている)
帰るみちに迷いながら地下街をさまよい、空腹と喉の渇きに、
どこかの店に入って何か食べようかと思うのですが、二次会を断って
いるのに食べ物の店に入るのは、なんだか許せない気がして
がまんして歩いていましたが、新大阪駅が目の前に来たとき
小さなパンと珈琲くらいなら許されるだろうと、
そこにあったタリーズ珈琲に入って、シナモンの小さなロールパンと
珈琲を頼みました。
そうしたら女店員さんが「パン、温めましょうか」と
言ってくれて・・・「うんうん」。
温かいロールパンと熱い珈琲で生き返って大津に帰ってきました。
大阪の女性はやさしい!珈琲はタリーズ珈琲だ!
安永蕗子の歌、
好日の「日常生活詠」というのとは質が違うように思います。
だいたい多賀先生は「好日」は日常生活詠を脱しないとダメだ・・
的なことを言われていました。
二首目などはどういうことが詠われているのか。私には皆目です。
状況や歌の背景を読み取ろうとする私の読み方ではこの歌は解けないのかも。
Re: 10月
投稿日 : 2016/10/17(Mon) 23:54
投稿者 のりこ
参照先
はなゆきさ〜ん、お久しぶりです。
なにか締め切りのあるものを書いていたのですね。
このところ、ここは茶飲み話のように気楽で安らかな雰囲気です。
こんなふうにして歌の話もできるといいなあと思います。
多賀さんのお名前知っています。好日の先輩から歌集を1冊いただきました。安永蕗子、読みたいと思いつつそのままになっていました。
今、ちょっと読んでみました。ドキドキしました。

○泡だてて白き卵を嚥むときも卓に聖女のごときひだり掌
○紫の葡萄を搬ぶ舟にして夜を風説のごとく発ちゆく
○むなしくて心冷たく居りし夜を指ほどの稚鮎食ひて眠りぬ

これは若くては実感としてわかりませんね。コンマリ流、歌集にはあかん。
たかしさん、この1・3首目はワタクシ的には生活詠の範疇ですがどうですか?
うーん、ニセ生活詠(笑)?・・

はなゆきさ〜ん、また来てね!
Re: 10月
投稿日 : 2016/10/17(Mon) 21:46
投稿者 はなゆき
参照先
ご無沙汰しております!突然に侵入いたします!
自分で作るストレスに埋もれて……人生真っ暗状態でした。
皆さんのやりとりを、たのしそー!と覗き見はしていました。
皆さんの短歌へののめり込み具合すごい。

今日ようやく解放されました。
大きな声で言うと顰蹙を買ったり、バカ呼ばわりされるので言いません。
時間をかけて推敲が課題です。締切厳守も(言ってしまった)。

今日はなぜか甲南支社だった?多賀さんの言葉を思い出しました。
「安永蕗子の歌が好きなんや」こんな感じだったと思います。
ヤスナガフキコ?誰?のレベルだった私は密かに買って繰り返し読みました。
チンプンカンプン、その後も何回かトライ、難しい。
今読んだらきっと違うと思うけど……。コンマリ流で消えたようです。

来週からまた九州に帰ります。同窓会のついでの介護といえば介護、
でも一人暮らしが成り立っているのだから、
介護というのも気がひける、気分転換兼ねての様子見です。

大事なことを忘れていました。
ユッキーさん
東京のYさんは、web歌会はやはりノーです。
遅くなってすみません。洋子さんとはお会いしたいけど……でした。
おお!
投稿日 : 2016/10/17(Mon) 08:34
投稿者 たかし
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のりこさん、よく読書してますね!!小池さんも。
「童馬山房夜話」(わたし読んだことがない)をAmazonで
購入できるかと思って探しましたら、
第一巻はなかさんの言っていたKindle版が出ていました。
第三巻は買えるようです。ただ、第三巻の初版は昭和19年なので、
このロペツ云々が載っているのは第四巻なのかと思う。
この辺りは一度図書館で確認した方が賢明だ。
そして、対戦相手のデインですが、ネットでは見つけられなかった。
Re: 10月
投稿日 : 2016/10/16(Sun) 22:57
投稿者 のりこ
参照先
たかしさん、
小池光の『茂吉を読む』にそのロペツの歌がのっていました。
それによると
「このあいだ、デインといふ大きな男と、ロペツといふ男がレスリングをやって
3回戦でロペツが勝ったが、私は動機がして来てしまひには胸苦しくて見てゐられなかったほどである。デインといふ巨大肥胖漢は餘り大きいので、倒れると急に起きあがれない。また手の運動なども遅鈍で、まるで出羽嶽文次郎である。あれでは困ったものである。」
と11年1月のアララギ『童馬山房夜話』に出ていて、こちらが正確とすれば
「ロペツ」は「デイン」の記憶違いではないか。ゴリアテににているのは大男
「デイン」である。云々

とありました。確かに写真のロペツは起き上がれない人には見えませんね。

「似たらむ」のラ音が」思わず「ロペツ」といわせたのではないか。・・・もののはずみのかんちがいのように思える。
のだそうです。
歌会は大切な学びの場
投稿日 : 2016/10/16(Sun) 20:13
投稿者 さよさん
参照先
中さん、歌会で充実した時間よかったです。
私は行けず残念でした。いろんな人の意見や批評は参考になりますね。
自分の思いも言って、また推敲できますもの。
次はweb歌会ですね。木になりましょう。
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