蒲生野、この言葉にはロマンあふれるひびきがある。
額田王と大海人皇子とのこの歌が蒲生野を夢とロマンの地にしている。
蒲生野というのは現在でいうとどの辺りか、と多くの人が思う。漠然と蒲生郡の八日市や、蒲生町の辺りを思うが、ここに有り難い資料があった。森山宣昭氏(昭和56年頃近江兄弟社高校の 先生をされていた。)が、「蒲生野の地名起源と範囲」という文を「湖国と文化」の「日本の中の近江」特集に「古代の蒲生野開発」と題して 書いておられる。ここに転載し、参考にさせていただく。
森山宣昭氏の考察
(「湖国と文化」、「日本の中の近江」特集より)
1、蒲生野の地名起源と範囲
『古事記』は上巻に「蒲生稲寸(がもうのいなぎ)」の名を載せ、これについて本居宣長は『古事記伝』の中で蒲の多く生えていることに由来するものであろうといっている。
また『日本書記』の推古27年条にも「蒲生河」(日野川のこと)のことが見え、したがって蒲生郡の名もこれに因み、かつ蒲生野もこれに所以するものであろう。
では、蒲生郡は旧蒲生郡内のどの地域を指すのであろうか。『近江蒲生郡志』巻8には西生来に蒲生野、野口に蒲生野、下平木に(※注・現在の地図には下平木はなく、上平木のみ。)
蒲生野畑、蒲生野、南野に上蒲生野・下蒲生野ノ一・下蒲生野ノニ・下蒲生野ノ三、内野に蒲生野と大字蒲生野、 『角川日本地名大辞典』には、武佐に蒲生野口、西生来にも蒲生野口、南野に上蒲生野・下蒲生野、内野に蒲生野、 下平木に蒲生野、市辺に蒲生野口、野口に蒲生野・蒲生野口、三津屋に蒲生野があげられており、狭義の意味では 右小字名を結ぶ線内を蒲生野と呼ぶことができる。したがって、この蒲生野は古代では一部を除いて大半は原野で あった。─(後略)─
(※注・)と、地図はホームページの編集者が補足説明として書いたものです。以上、森山宣昭先生は主に「地名」から考察されています。 蒲生野という大きな古代史の舞台、湖東でもこの辺りはもっとも平地部分が広いところです。 図で緑色は海抜100メートルまでの平地、次の黄土色が海抜200メートルまでの準平地(高台)、 その次の茶色が海抜200~400メートルの山岳地。という風に大体の色分けをしてみると 蒲生野のある辺りは、湖東平野のなかでももっとも平野部分が広いことがわかります。 古代の人達もこの広大な原野に狩りをし、薬猟(薬草などを採集する)をし、のびのびとした空間を楽しんでいた のではないかなと私は想像しました。(記、HP編集者) (下俯瞰図、太郎坊宮のある赤神山より蒲生野を望む。クリック拡大)
参考資料「じんけん」誌、2003年10月号(滋賀県人権センター発行)「ふるさとウォッチング」第3回。
万木宗良(ゆるぎむねよし)という「アララギ」の歌人が、戦前に、当時の高嶋郡水尾村鴨にいたことを
現在知る人は、地元でもほとんどいないと思われる。宗良はまさに無名の歌人であった。その生い立ち、経歴、
作品について、平成七年十一月二十五日に、私は「戦没農民兵士の歌
=万木宗良小伝」「万木宗良歌集」という私家版を出し、遺族、アララギ関係者に配布し、
歌会等で幾度か講演をしてきた。
書き遅れたが、私は「アララギ」会員で、土屋文明の作を愛読し、万木宗良を知り、後輩の一人として
現在生きていることを意識し続けていた。ここで改めて取り上げたのは、人は、ふるさとの人問、風土、文化等から
心身ともに影響を受けて成長し存在することをテーマにして書いてみようと思ったからである。
まずは万木宗良の略歴を紹介してみよう。
万木宗良は、大正元年 (一九一二)に、現高島町鴨に、農家の長男として生れた。九歳の時父と死別、宗良の成長に不安を感じた親類は 相談の末、虎姫に住む銀行員の叔父に預けた。その主な理由は、宗良が生地で「のけ者」にされていたことが 挙げられる。生来内向的で、[卑屈」であった宗良が新しい地で明るく伸びのびと成長してほしいという家人親戚らの 願いがあった。運動は得意な方だが、無口で、あまり笑顔を見せない少年であった。膳所中学校に入学。同校の 国語の藤田先生(アララギ会員)から、「万葉集」を授業で学び、吾が村が西近江の万葉歌の故地であることを知り 万葉集に関心を持つようになった。藤田先生に出会えたことが、宗良の作歌の動機となったことは間違いなかろう。 昭和八年アララギ二十五周年記念の新聞記事を読みアララギ会員になった。昭和九年の東京での安居会に出席し、 土屋文明に会う。以来文明を師と仰ぐのである。家族は母、妹一人。中学卒業後、一町余の田畑を母ともに耕作する。 作品は昭和九年から同十八年の「アララギ」に断続的に発表する。地元では親しい友人はほとんどなく、京都に出て、 歌会に出席し歌人と交わった。変化に乏しい保守的な田園生活になじめず、青年期特有の憂愁な日々を送っていた。 異性との交流はほとんどなかった。昭和十年ごろ、平凡な農村生活を自ら変革しようと、農業改革の先進地、 当時日本一といわれた半田市の農場で一年間学んだ。昭和十四年十月、文明を高島に迎え万葉ゆかりの地に案内、 翌年には湖東「蒲生野」に文明とともに遊んだ。文明は、寡黙で、内に秘めたものをもつ宗良の人柄を愛した。 師弟関係というより、心と心の通い合う親しい関係であった。農業に励む宗良にも応召の時が近づいていた。 宗良は社会思想の面で激しいところがあったようで、親戚から敬遠されていた。
この歌に宗良の思想が伺われる。金石は宗良の行く末に不安を感じたのである。
宗良は出征にあたり、「アララギ」だけを残し蔵書は全部処分している。 自分の思想の痕跡を消し、周辺に迷惑をかけないという配慮があったと思われる。 社会批判の鋭い作品を詠んでいるが、思想的行動としてまでは踏み込むことはなかった。
昭和十九年応召。宗良は母一人置いて戦争にいくことに悩み苦しむ。翌年、航空母艦大鳳に一整備兵として乗り、 フィリピン方面で甲板上の事故により負傷、マニラの海軍病院で死去。享年三十二歳。戦友によると宗良は、 戦況にも否定的であったという。
宗良の作風は、文明からの影響を受けて、写実に徹し、自己の内面や社会の事象を青年期特有の鋭い目で見つめ、 息苦しささえ感ぜしむる。約十年の短い歌歴であった。歌数も一六四首(「アララギ」掲載歌)である。
土屋文明は宗良の戦死を心から悼んだ。
この挽歌に文明の深い悲しみがこもっている。
平成七年十一月二十五日、私の調査研究「戦没農民兵士の歌=万木宗良小伝」の完成の墓前報告会を 戦友の勧めもあり計画したところ、遺族、戦友、アララギの歌人が出席された。万木家は浄土真宗大谷派慈敬寺の 檀徒である。私も同じ大谷派の檀徒なので導師を務めてお経をあげさせていただいた。湖北時雨の日であった。 (当日の写真輪袈裟を掛けているのが筆者)
万葉紀行「蒲生野」文明が始めて「万木宗良」の住所である「水尾村」を知った時、 万葉の地高島に生きる宗良に、言い難い親しみを感じたと思われる。しかも自分の選を受けたいという。 会えば純朴で聡明な青年で、たちまち文明の心を捉えたのだった。昭和十四年の秋、文明は万葉踏査のため 西近江路を訪れる。翌年五月六日には大津宮址、志賀山寺址、そして、同年六月二十二日には蒲生野を訪れる。 今回はこの「蒲生野」踏査について述べてみたい。
文明は、週末の短い休みを利用して東京から夜行列車に乗り、朝近江八幡駅に到着、宗良と北村庸夫と落ち合い、 蒲生野行きの電車に乗りかえ、平田駅に着いた。宗良と同じアララギ会員で中学の先輩である北村庸夫も 先生のガイドを務めた。
宗良は先生と共に、蒲生野を踏査できることに無上の喜びを感じて心待ちにしていた。
草鞋(わらじ)の作り方は、近くの古老に教えてもらい、自らの手づくりであった。 師を心より迎える宗良の真心が草鞋に篭っていた。同行の北村庸夫手記を引用してみよう。
「三人が近江八幡駅でおちあって平田駅で下車すると、万木君は自分のリュックサックの中から手造りの草鞋を 出す。先生は『はじめて習ったにしては中々うまいじゃないか』などと云い、待合室で靴をぬいで巻脚絆をまかれて、 ゆっくり楽しげにその草鞋にはきかえられると云った風に、万木君は先生の身のまわりまでこまごまと気をくばり、 先生もそれを自然にうけて行かれる様子は、全く親しい親子のようで、最初からそうでしたが先生は特に同君の 素朴な純情を愛され、父のない万木君は自分を見抜いてきびしく指導される先生をひと方ならず敬慕している ようでした」
文明はありのままを誇張もしないで詠んでいるところに特色が出ている。
随行している宗良の感動も読む者に伝わってくる。すでに宗良はアララギ風の写実法をマスターしている歌である。
蒲生野は近江八幡から八日市周辺までの田園地帯で、その中央に船岡山がある。文明一行のたどった道順を まとめる。
平田駅下車_内野_八日市場_来田綿蚊屋野(くたわたのかやぬ)の趾_日野の奥北畑
_小野(こぬ)(鬼室集斯の遺址)
この二首は、天智七年(六六八)五月五日(太陽暦六月二十日前後)近江蒲生野に天智天皇が皇族などを従えて 遊猟(薬猟)をしたときに、額田王と大海人皇子との間で交わされた相聞歌である。文明の踏査もこの恋愛歌の 時期に合わせたのだった。
ところが、行く先々、どこにも目指す「ムラサキ」は生えていなかった。「紫野を紫草(ムラサキ)の生えた野、 乃至紫草を栽培せる野と考へることに疑問を抱き、寧ろ否定に傾かむとして居る」(土屋文明)という 思いがこれで固まる。
「ムラサキ」根は太く、茎は直立して高さ六〇cm内外、多数の披針形の葉をつける。茎、
葉に租毛が多い。夏、上方の葉腋に数花をつける。花冠は白色、縦六mm内外、五裂する。根は紫根と呼ばれ、 かわくと紫色となり、古来染料(シコニン)とされた。」(挿入図は、牧野新日本植物図鑑より「むらさき」)
現在、船岡山は、万葉の森として整備されて頂上には万葉歌碑が、ふもとには当時の相聞歌の情景を 描いたレリーフや万葉植物園がある。
これはこれでまた意義がある。当然当時の趣とはまったく違っていることは言うまでもない。 文明が描いた「空想」も、その当時の風景とはあまりにもかけはなれていた。これもいたし方なかった。
私の「想像」では、天皇の遊猟という行事のために、人工的に自然の舞台が設定され、 「ムラサキ」を広範囲にわたり植栽したのではないかと思うのだが、これとて事実に基づかない妄想と 笑われるかもしれない。
このことで、思い出したことがある。今から二十年ほど前に、八日市の塚本先生という地元の方が 「ムラサキ」をかなり栽培されていた。その「ムラサキ」は古代から連なる種であると自慢されていた。 その栽培家として研究されその自培の写真をいただいたことがある。当時私は米原中学校に勤務していた。
この「託摩野」はわが町「筑摩」であると思っている米原町民が多かった。ところが肝心の「ムラサキ」は だれも知らないし、筑摩にはどこにもない。そういう事情を私は知っていたので、町の文化祭にこの塚本先生の 「ムラサキ」を展示できたら皆さんに喜んでもらえると思い、先生に鉢植えの「ムラサキ」の借用を依頼した。 ところが塚本先生は借用書を書いてほしいと言われ断念した覚えがある。あの先生愛培の「ムラサキ」はその後 どうなったのだろうか。これは余談になってしまった。「ムラサキ」の生育地は火山系地質が適していることは もはや定説である。粘土質の蒲生野、筑摩では自生はしない。それでも家庭栽培ならできそうであるというのが 私の感想である。文明も長年自宅で「ムラサキ」を愛培していた。
さて、この踏査によって文明先生は長年の願いが叶えられ、しかも地元の愛すべき青年のガイドによって 充実した成果を収められた。宗良も文明先生のお世話をすることにより心が満たされていた。 万葉歌の取りつ縁はまことに感動的である。あまり人から受け入れられない宗良にとって、 文明の愛情はこころに染み入ったことは想像にかたくない。
文明は宗良の草鞋を惜しみ惜しみて残して去っていった。それから二十七年後、文明は「万木君」の ふるさと鴨村を訪れる。
蒲生野には、このような尊い紀行があったことを多くの人々に知っていただきたい。
この近江の小旅行は土屋文明著「万葉紀行」のなかに収められている。
次のページにこの「万葉紀行」のなかの「蒲生野」を転載して紹介します。
この「岳北の 泳の宮」を青南集の「美濃懐旧懐古」では「南宮の山を南にくくる清水まこと岳北の泳の宮ぞ」 と具体的に歌われている。私注では、この地を不破郡国府付近とされている。先生はこの地に実地に立って そう確信されたわけであるが、「くくる」の意味はどう解釈したらよいか。一般的に「総括する、まとめる」と とってみると主語は「清水」だからここが宮址と先生は解釈されたのだろうか。
次に「おきそ山」については「ミヌノヤマ後世ミノヤマ、ミノノツヤマ、ミノノナカヤマと呼ばれた所で、 広くは、近江美濃間の山と見るべきであらう。従ってオキソヤマも其処に近接する伊吹山のつながりと見てよい。 (巻5-799)のオキソカゼはイブキノカゼと同じ意であらうから、オキソ、イブキは同名と見える」(私注) とある。候補地として、岐阜県可児市の浅間山、同多治見市の高社山が挙げられ、伊吹山は三番目である。 (万葉集事典、中西進)文明先生は、この通説を否定されて思い切った伊吹山説を想定されたわけだが、 これも実地から来ていよう。この考証から、次の作が誕生し たわけである。
イブキ山即ちオキソ山なれば美濃の伊吹の村も親しく「美濃懐旧懐古」。この解釈は「歌にあるオキソ山は 伊吹山と定められる。だから、その山麓にある伊吹という村が親しく感じられる。伊吹は近江ということは誰も 疑わないのに、ここ美濃に伊吹という村がある。ここの山麓も大きく言えばオキソ山イブキ山なのだ。だから伊吹 という村がある。わたしの解釈に間違いがなかった」となる。
落合京太郎歌集には、近江、中でも湖北の歌が多いのに気付く。その内容は北陸歌会への往還によるもの、 万葉ゆかりの息長への懐かしさ、文明先生の万葉紀行を辿っての感懐等である。約百五十首ある。
この作は文明先生の考証と作を基にして作られた。この作だけで解釈するのは難解すぎる。拙文で 理解いただけるのではなかろうか。歌のできた背景を知ると、「疑はず」というところが正直であり、 「しみじみと見き」も実感がこもっている。
この「おきそ」即「伊吹」は文明説であって定説には残念ながらなっていない。前出のと同様に「おきそ」 の解釈は地名事典にもなくて難しい。
この小文を書くことによって、文明先生の万葉集研究と作歌の関連の実際がうかがえて興味深かった。 この場合、作歌のほうでは大胆な想定がされていると思った。
現在作成中
Copyright © 滋賀県歌人協会