大正十五年二月に佐後淳一郎、木村緑生、米田雄郎らの発起により、近江歌人連盟を結成した。派閥・結社閥を超越して
県下歌人の大同団結を打ち出し、昭和に入った。
◆佐後淳一郎:安曇川町大字西万木の天台宗の来迎寺の僧で、大正12年頃より作歌。尾山篤二郎、松村英一、吉植庄亮に師事して
大正15年に「自然」の同人となった。
◆木村緑生:蒲生郡平田村上平木の出身、昭和の頃は膳所錦町北昭和町に住んで、新聞記者であった。
大正初期より西村陽吉の生活派短歌運動に参加以来、口語歌を作っている。
◆米田雄郎:大正7年より蒲生郡桜川村石塔の極楽寺に住み、明治44年5月「白日社」に入社以来、前田夕暮に師事した。
大正6年『日没』を出版している。当時、県下の歌人を養成するため先頭に立っていた。
・森三樹雄(「自然」の主要同人)・田村松之丞(生田蝶介に師事して「吾妹」の創刊同人)・村尾雅子(大正3年「覇王樹」に入社)
・辻井朱径:
昭和十五年四月には前田夕暮、矢代東村、原三郎、野口謙蔵を迎え
大津長等公園下神社会館にて紀元二千六百年奉祝歌会が開催され、県下の歌人が多く集合した。
十月には、ノモンハンにて戦死した中采雅行の遺歌集『曳光弾』の出版もされた。昭和十六年六月、
大日本歌人会が結成され、米田雄郎はその評議員となった。同年の十一月三日には、
大津市公会堂三階で大日本歌人会滋賀県支部発会式があり、米田雄郎が支部長となった。
これが滋賀県歌人会の初めということになる。
昭和五十五年十一月二十四日に米田雄郎の第四歌碑が、蒲生郡蒲生町石塔の極楽寺に建立された。
米田雄郎は二十五歳から六十九歳で亡くなるまで四十四年間をここに過ごし、
県での明治百年の功績者の中にも加えられている。この除幕式には東京より香川進(宮中新年歌会選者)や、
富永貢(東京・結社北斗)、当時の県議会議長小島幸雄ら約百二十名が参列した。歌碑の歌は
”いくばくのいのちとぞおもふときにしも春のよろこびもちてくらさな”
である。その節、米田雄郎が生前努力した滋賀県歌人会が雄郎没後数年で自然消滅のかたちとなり、
全県的なものは滋賀文学会の短歌部門として続い ているだけなので、再興すべき時期が来ているのでは
ないかという意義深い渡辺朝次 (左端画像)の発言があった。このことについて後日、
県内の若手歌人の山村金三郎(右端画像)・小西久二郎(中央画像)が推進役となって準備に
とりかかったのである。
この年、近江神宮の天智天皇鎮座四十周年記念に、全国から献詠を募って短歌大会をひらいた。
香川進・米田登・飯田棹水・伊藤雪雄・三品千鶴・山村金三郎・柳田暹暎らが選歌し、講評した。
10月には中部短歌会支部から合同歌集「みずうみ」が短歌叢書第85編として、津川薊花や犬山遊らの
編集によって出版されている。ここには昭和初期「いぶき」を創刊した亀山美明の作品も掲載されている。
歌人協会の発足
昭和五十六年一月十五日、西福寺において発起人会を開催。三十四名が出席して、
滋賀県歌人会の発展的なものとして滋賀県歌人協会として発足しようということとなった。
事務局は当分の間、大津市春日町の山村金三郎方とした。三月十四日の小委員会、三月二十九日の
幹事会を経て四月五日の創立総会となった。
先ず滋賀県歌人協会規約が承認され、その席で初代の代表幹事に伊藤雪雄、副代表幹事に山田平一郎・
柳田暹暎・主事に山村金三郎・その他幹事が選ばれた。この時会員は八百五十名であった。
この「県歌人協会の歩み」は 、伊藤雪雄著「昭和の湖国歌壇」を、 現滋賀県歌人協会に関わる部分を抜粋して転載させていただいて作成したものです。
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