2007年5月寄稿
高齢者の創作の現状
今日の高齢化問題は深刻で、多くの老人がさみしさ、むなしさを感じて、充実した日々が送れていないと
いわれています。しかし、それが、すべてではなくて、老いてますます自己実現の道を歩み続けている老人の
多い事も事実です。
文芸の創作に打ち込む老人たちは、それ以外の人よりも、精神活動が活発であるようだ。
平成十八年の滋賀県文学祭の短歌部門の応募者(二百九十九人)の、七十歳代以上の占める比率は、六五%でした。
俳句、川柳、冠句、情歌の場合も短歌とほぼ同じ比率です。まさに高齢者の文学祭といえます。
ところで、その作品が、毎年充実した作品かといえば、残念ながら、マンネリ化し、生気に乏しくなっています。
もう一つの大会、平成十八年度秋期短歌大会(滋賀県歌人協会)滋賀県文学祭の短歌の応募作品に、働く、
体を動かしての歌が皆無になってしまいました。これは高齢化に伴って、その作が作れなくなったのです。
産業構造の変化によって、働くチャンスがなくなってきました。農業の場合、共同作業が進められ働く場が
なくなってしまいました。それまでは、必死に先祖伝来の土地を守り続けてきたのに断念しなければ
ならなくなりました。この嘆きの作は、真実味があり心を打ちます。働く意義を実感できなくなって、
仕事がすでに郷愁の歌になってしまいました。これは、何も農業だけにかぎりません。
この作に、いくらか労働の動きが感じられるが、リアリズムのようですが、リアリテイがあるようで、 もう一歩新味がほしいのですが、一応目立つ作です。家事においても、働く実感は薄れてしまいました。 そのことが、幸せのはずだったが、逆に生きる事の充実感が減り、何のために生きているのか、 むなしさがこもります。おいおい「過去に生きる傾向」へと拍車がかかります。私の注文はどだい無理な要求と 批判されることは間違いありません。この働くことの意義は作歌についても当てはまります。土屋文明は、 歌の材料が見つからないと悩む歌人に、ひとつのヒントを与えました。とにかく外に出て、家の回りを回って きなさいと。これは、もう神話のごとく、伝承されています。これを実行すると、今まで八方塞がりだと 悩んでいたのがウソみたいになって、歌が生まれそうになります。このことは、小暮政次も歌論(?)の 「とにかく動け」ということを頑ななまでの主張していました。悩むより動けという・・・・・・・。
私のかつての第二の職場―不適応児の指導実践―から、どうしたら子供たちが生きがいにつながるかを考えて 実践をしてきました。自殺未遂の子、家にこもりがちな子は、まず外部に誘いだすことです。辛抱強く接するうちに、 子供は空気のおいしさに気づくし、ボールを使っていっそう動きが生き生きとしてきます。 まず動くことの大切さを体得するわけです。
高齢者の場合、これは、よくある例だが、悲劇の事件を放送するテレビに集中して、被害者とその側に同情して、 涙を流してその日を暮らします。作る歌もマスコミからの取材が多いのです。それを、制限させようと働きかけるが、 逆にここにあるのは紛れもない事実であり、それを作品化するのはリアリズムだと言い、自己評価し肯定しようと します。しかし、月日を経て周りの仲間が、現実をよく眺めて作歌してることに気づき、自分の考え方を徐々に変えて いきます。
諸富祥彦「むなしさ」の心理学との出会い
歌が作れるということは、日々が充実して、むなしい感じがしないからです。約十年前に、不適応生の指導に
苦悩していたとき、諸富祥彦の著書に出会いました。むなしさを感じない生き方を求めたその内容に影響を
受けました。氏は老人のむなしさを、救う方法も説かれていました。
「社会とのつながり」を保ち、「自分もまだ役に立てることがある」という実感を持つことが、老人の空虚感を埋め、
生命に張りを与えることは間違いない」
NHKこころを読む002年「生きがい発見の心理学」{下}(諸富祥彦)を読み、そこに老いたる歌人にも
当てはまる理論に感銘を受けて、私の関係する歌会にも取り入れていきました。
「生きていくことの意味」(PHP新書)
「孤独であるためのレッスン」(NHKブックス)
「むなしさの心理学」
以上、諸富祥彦著
「高齢者の孤独の豊かさ」竹中星郎((NHKブックス)
諸富祥彦の著書により、生きる意味とはなにかを説いたV・フランクルーがアウシュビツツでの地獄体験から
生まれた心理学の説を学びました。諸富祥彦の著書は、きわめて分かりやすく、教育の現場で応用できたように
思います。私の実践は、きわめて浅く取り上げて示す例はないのが残念です。私の周囲の、不適応の子供たち、
歌会 に来る生きがいを失いかけている人々にも適応可能なケースがかなりあったし、文芸外での、私の所属する
洋蘭の会にも十分活用できセラピーとしても役立っていることは事実です。
短歌の場合のV・フランクルの心理学から学ぶ
歌をつくることは、「むなしさ」からのがれることにもつながります。V・フランクルの心理学は、
「癒しの心理学」で、現代にもっとも合致します。人生にどういう意味を見出すかです。
短歌でいえば、その動機に意味を見出す事であるといえます。その手がかりとして、その心理学から「創造的価値」
が歌にあるかということです。易しく言えば、行動で、何をすれば生きがいを感じ、癒されるかということです。
じっとしていては「生きがいは」は感じられないし、「癒し」にもなりません。まず、仕事、行動が上げられます。
そんなに単純に動いても、感動は生まれるはずがないという人も確かにいます。そのことも否定はできませんが、
まず行動ありきなのです。
易しく言えば、職業、米野菜つくり、教育の実践、福祉・・・・そこで何かを創造します。
それが作歌の動機材料になります。
次に「体験価値」があります。自然や芸術の美しさを体験する事から得られる価値です。
人と人とのふれあい体験が価値の中心になります。
次は「態度価値」で、人生は死の直前までその意味があるとさとることです。苦しい場面でもそこに価値を
見出すことです。こういうまとめた説明ではなかなか理解が得られないと思います。
それでは、三つの価値の実現の価値を、短歌を例にして説明してみよう。人の生き方を学ぶ心理学を、
文芸に応用するということは、乱暴すぎるかもしれません。文芸はあくまでも言葉の芸術であることを等閑に
する虞があると批判されるかもしれません。このことを十分留意して、創作、鑑賞を進めたい。
創造的価値の歌
六十代の女性Kさんは、私の短歌会の会員で、大変な勉強家である。お子さんも一人前になって家庭をもたれ、
お孫さんもあり、ご主人とともに幸せな生活をいとなまれていました。ところが、心臓疾患のため急死しました。
Kさんの悲しみは深く、なかなか立ち直れませんでした。こもりがちになり、悲しんでばかりの生活が続きました。
もちろん月例歌会も欠席、もう歌人としての復活は危ぶまれました。短歌雑誌 にのる歌は、ご主人の挽歌ばかり
でした。四十五日後、私たちの歌会に顔を見せるようになりました。合評の中で、外に出る、体を動かすことの
大切さを指示されて、吾に返り、このままではという気持ちになっていきました。
平成十七年十二月から、例の豪雪に見舞われた。Kさんは、ついに動き出したのである。伊吹山の麓は豪雪でした。
彼女は屋根に上がり、雪降ろしを始めました。子供たちも隣人も彼女の動きに感動するばかりでした。
もう説明の要なしです。言葉も生き生きとしています。これこそ、生きがいとして、「仕事」「動く事」から 得られる価値なのです。
下の句の「置きて構ふる」に生きる意欲があり、まさに生きがい発見である。
働くことからくる感慨が出ています。
「体験価値」の」歌
これは、人や自然・芸術によって感動し、「生きる」ことです。びわ湖のさざなみ、読書、名画からの体験、
子どもとの出会い・・・・、しかし、人生を変えるような体験となることが望ましいのです。
近江に住む人の「よし笛」のよさの再発見である。癒されて、意欲的に生きがいを再発見するのでる。
親子の現実の関係がリアルに出ている。下の句の「畔草刈って」はなかなか面白い。
次に体験の中で誰かを愛することーボランティアもまた人の生きがいで、自分の癒しにもなります。
両者にはこの意思表示で、生きがいを感じる日々となります。
態度価値の歌
自分の窮状に対して、どう生き抜くか、自分の窮状に対してどう対処するか、価値の高い生き方なのです。
なかなかそれに合致する作は、どの大会でも見つけることは難しかったです。
なんとか、態度価値に近寄る作を作るのが、究極の作歌ではないでしょうか。現在の生活の歌が、日常の平凡な
位置に留まっているように思われます。なんとか、態度価値の歌を詠みたいものです。長年 の人生経験から
感じ取った態度価値は、作者独自のもので、他の模倣を許さないはずです。
「創造価値は身体の次元で、体験価値は心の次元で、そして態度価値は精神の次元で実現される価値です」
(ロゴセラピーについてー仙台ロゴセラピー研究所)うまくまとめられています。
態度価値の作品例を応募作品から挙げようと努めましたが、その発見ができませんでした。
最近の「毎日歌壇」の作品から、それに近い作品を選んでみました。歌人の作を引用してみます。
※注__引用の作品はほとんどが滋賀県歌人協会の応募作品です。
2009年2月寄稿
とにかく動くことから_動くといって多種多様
主体的に生きていくときに感動が生まれ歌となる。その感動がすべて歌となることは当然ない。その感動は、 短歌として、表現の過程を経て様式に当てはめ作品化される。作品が、短歌であり、『文芸』であることが 必須である。感動は、「生きがい」を感じている心的状況である。創造により価値を生み出しているときの感動。 その感動とは、動く事によって生まれる。じっとしていては歌はできない。行動によって、感動が発生する。 具体的に言うと、仕事による感動である。田畑に出て体を動かす事によって、感動が生まれる。家事をすることでも 感動は生まれる。ウオーキングもまた感動が得られる。そして介護も、ボランティア活動もしかり。趣味の世界にも 「動く」ことも多い。旅もまた歌ができるチャンスである。それらから歌が生まれる。いわゆる「生活の歌」である。 近年の滋賀県における短歌大会―県歌人協会の大会、県文学祭の応募作品には、行動から生まれた作が極めて 少ないのが現状である。このことは、高齢化時代に当然の事かもしれないが、そこに課題があることを、投稿者は 認識しなければいけない。この自己理解なくして充実した作品が生まれないと思う 。
これは仕事の歌で、「三十本」という数字がリアリティーがあってよい。仕事の量は少なくても、 これはこれでいいと思う。とにかく働く事で歌ができた。ただ上の句が解釈しにくい難点のあることを付記しておく。
上の句の意味が通じない面があるが、ここに「草引き」という仕事があるので救われた感じ。これが中心である。 ところが仕事としては、やや甘い感じがする。これは年齢にもよるが、真剣味がやや不足かといえば酷か。 とにかく、「動く事」が作歌の動機になった。
実際に作業しないと作れない作。頭の中で作っていない事は明白。介護の歌も、年々減少してきた。それには
いくつかの事情があろう。
とにかく、生きているかぎり、それぞれが限界に挑戦していくことで「創造価値」の歌が作れるのではなかろうか。
※この歌論はヴイクトール フランクルのいう「創造価値」…人間が行動したり何かを作ったりすることで
できる価値(芸術、文芸)の考えから学び取った考えである。
2009年8月寄稿
塚本邦雄の短歌が、その総合誌に登場し、今までに読んだことのない新鮮作に、当時二十代の私は、筆舌に つくせない感動を覚えた。
初読の新鮮な感動を、今も思い出すことができる。それは分かるというより、言葉、リズム等からの強い
衝撃だった。舌頭に千転しても飽きの来ない歌としての力があった。
半世紀前の私は、茂吉を卒論に選び茂吉を愛読していたものの、この前衛短歌に吸い込まれていったことは
事実である。やがて、塚本邦雄が自分と同じ近江出身であることを知り、驚きとともに強い親近感を覚えた。
前衛短歌の理解者でもある中井英夫は当時(昭和三十四年ごろ)総合誌「短歌」(角川)の読者短歌欄で
作歌指導もしていた。私もそこに投稿した。直接、中井英夫からその方向の指導を受けたこともあった。
「黒衣の短歌史」(中井英夫)の中に、邦雄調の私の作が一首引用されている。私はやがて滋賀県で教職に付いた。
そして、アララギ関係の方との交流が始った。教育実践から歌が生まれた。それから、半世紀、塚本邦雄の生い立ち、
作風の誕生の経過を知りたいまま経過した。私の心の底にあった「塚本邦雄」についての知りたいことが、
本書では実証的に書かれていたのである。私はむさぼるごとく読みふけった。
古里と塚本邦雄
読後、直ちに邦雄の生地である東近江市五箇荘川並を訪ねた。そこで偶然にも道で初めて会った人は、
森田ちかさん、邦雄のイトコだった。邦雄の育った屋敷跡、川並の町並、近くのきぬがさ山、何処にも、
彼をしのぶものが何もなかった。坂本家の墓はここにないことを知っていたが、その理由もわかってきた。
邦雄は父金三郎(商人)とは生後四か月後に死別。母すがに育てられた末つ子。兄一人(春雄)姉二人(絹子、継子)。
姉たちとカルタとりなどして文芸を味わい、読書もよくしたという。
思いがけず「外村甚兵衛の系譜」という小冊子(平成十九年)を入手した。母の妹(ゑみ)の思い出が書かれて
あった。そこに母方の家系図、「永代記録」川並の古地図も掲載されている。
母は十六歳の若さで、外村家から塚本金三郎(「丁吟店 仕入長」)に嫁いだ。十人兄弟の二番目、姉が13歳で
死んでいるので母が兄弟のかしらであった。若くして嫁いだのは「口減らし」であったと母の妹(邦雄の叔母)の
「ゑみ」の言葉である。母の死は、呉海軍工へいに徴用中であったため母の死に目には会えなかった。邦雄二十四歳。
邦雄にとって特に可愛がってもらった最愛の母の死であった。
「死に給ふ母」を読む邦雄の心理
─「私も、ある」の意味─
私は「茂吉秀歌 赤光 百首」を再度読んでみることにした。邦雄は、「この慈母渇仰、悲母愛惜の情が、
稀有の名作四連五十四首を成さしめたのだらう」という一文にまとめている。邦雄は茂吉の母をなくした悲しみと
自己の場合とを重ねて作を味わっている。この評釈に、悲しみを込めて書き進めている。
邦雄も茂吉と同じ、「慈母渇仰、悲母愛惜の情」が同じであった。そのことが理解できた。
「母の死に死に遭った経験のある者・・・・つひに最期を看とつてやれなかつた者ならなほのこと、
このあたりで胸にこみ上げて来るものがあらう。私も、ある。」
この「私も、ある」と言わしめた短い言葉。邦雄の文章でこれほど短い言葉はないと思う。文脈から、邦雄自身が
涙している姿が浮かぶ。
結び
本書の幅広い資料収集、邦雄との関係者の取材、時代としての文学的位置づけなど学べることが多かった。邦雄は、
五箇荘という商人の村で、異質の自己を見つめた生き方の方向性を教えたおじ吉之助。そこから学ぶべきことも
多かったと思われる。「聖書」からの歌が多くあったが邦雄は信者ではなかったという。
半世紀を経て、残り少ない余生の中で、邦雄の青春をわたしなりに理解できたことに著者には心より感謝するばかりで
ある。(09・07・29)
○研修のねらい
万葉集に「伊吹山」の歌が本当に存在しないのだろうか。
万葉集の研究書等を調べても近江の万葉の歌として、伊吹山は現れない。
ところが、万葉集の「奥十山」は「伊吹山」であるという説をとなえた人がいた。歌人土屋文明である。
その論及「くくりの宮」を読みながら考えてみたい。
○原文を読もう
読み人知らず
○歌 意
ももきね(枕詞)美濃の国の、山の北の、泳の宮に,東方に行くことの出来ない関所があると聞いて、それを避けて,
吾が通って行く道の、オキソ山や美濃の山、なびいて平になれと、人は踏むけれども、かう傍に寄れと、
人は突くけれども、無情な山である、オキソ山であり,美濃の山であるよ。
土屋文明「万葉集私注」
○山は何処か
「この長歌にある「泳宮くくりのみや」、「奥お十山きそやま」はどこをさすのか。いくつも説※があるが
定説はない。武田祐吉の「万葉集」の注では、「泳宮くくりのみや」※は岐阜県可児郡とあり、「奥十山」は
「於吉蘇山」とし、「木曾の山」となっている。
※「泳宮くくりのみや」 岐阜県可児市久々利に址を伝える。景行天皇行幸の地。一説に昔の泳は久々利西方の
地も含み、宮址は番場野辺。
万葉学者はそれぞれ自説を展開しようとするが、結局は「不詳、未詳」であった。アララギの歌人土屋文明は、
「続万葉紀行」「万葉集私注」で、実地踏査を経て伊吹山説を詳しく説いている。文明の
「くくりの宮」(続万葉集紀行)を再読してみると、「泳宮くくりのみや」は「不破、安八」、
※「奥十山」は伊吹山であることが理解できるの である。
その発表から六十数年を経たことになる。しかし定説がいまだないまま現在にいたっている。
{参考}
※奥お十山きそやま―所在不明__①岐阜県可児市久々利柿下の浅間山せんげんやま 374m ?
岐阜県多治見市大原町の高社山たかしろやま 416m ③ 岐阜県不破郡・揖斐郡と滋賀県坂田郡との境の
伊吹山1377m
中西進「万葉集事典」(講談社)
{参考}
おきそ―
◎土屋文明の「泳宮くくりのみや」説の要点_続万葉集紀行「くくりの宮」
○岐阜県の可児の「泳宮くくりのみや」は、地質上水の湧く地ではないということ。
→ 不破、安八は地下水噴出の地
○天皇の行幸にしては可児の地はあまりにも辺地すぎる。東国交通路から外れている。
→不破、安八は美濃の勢力の中心地
○「泳宮くくりのみや」を訪れた文明は、その跡(池)に水もなく、そこに新しさを感じたのだった。
文政二年に、地元の藩士千村仲雄が「くくり」というわが地名を、万葉集の「泳宮くくりのみや」行幸に
結びつけたのではないかと文明は説明している。可児の「くくり」は、「泳宮くくりのみや」ではなくて、
単なる地名ではないか。
重要なことは、どこから歌ったのかということである。それは東山道の近江からで、伊吹山を近くにして、
国越えのことを歌ったというのが文明の説である。
H21・10・11 中村撮影
垂井からの伊吹山_同
垂井からの伊吹山(奥十山)と三野之山__同
佐々木洋一画
民謡―呪いの歌として、真実の叫びとして
美濃の「泳宮くくりのみや」に行く前に、行く手を阻む山が聳えていた。ああ、この山さえなければと
つい通行人は「ため息」が出てしまった。「奥十山」は固有名詞ではなくて、「おきそ」すなわち「ためいき」
(息嘯)がでる山であった。かなわぬことながら、なびいて通りやすくなってほしいと、突いてみたり踏んで
みたりするがどうにもならない。通行人の願いがリアルに出ている。特定の詠み人はいない。
公用の官吏はもちろん各種の人が通った。妻にせんと乙女を求めて美濃に行こうとした息長の若者もいたかもしれない。
皆の山への願いがまとまって歌となったのだろう。宴会などでそれが歌われ、共感をえてこの歌となったのかも
しれない。呪いの歌だが、にぎやかな声が沸き起こる情景が目に浮かぶ。
民謡―呪いの歌として 真実の叫びとして美濃の「泳宮くくりのみや」に行く前に、行く手を阻む山が聳えていた。
ああ、この山さえなければとつい通行人は「ため息」が出てしまった。「奥十山」は固有名詞ではなくて、
「おきそ」すなわち「ためいき」(息嘯)がでる山であった。かなわぬことながら、なびいて通りやすくなって
ほしいと、突いてみたり踏んでみたりするがどうにもならない。通行人の願いがリアルに出ている。特定の詠み人は
いない。公用の官吏はもちろん各種の人が通った。妻にせんと乙女を求めて美濃に行こうとした息長の若者も
いたかもしれない。皆の山への願いがまとまって歌となったのだろう。宴会などでそれが歌われ、共感をえて
この歌となったのかもしれない。呪いの歌だが、にぎやかな声が沸き起こる情景が目に浮かぶ。
この作の特徴はなにか。それは、現代にも通じる真実の人の叫びが極めてリアルに詠われていることである。
当時伊吹は恐れられていた山なのに堂々と「心無き山」と喝破したことは驚くべきことである。
美濃国府(タルイピアセンター)
{参考}
文明も京太郎もアララギ北陸歌会の往反、伊吹山を眺め、それが「オキソ山」だとういうことを再確認
したのだった。
泳の宮の池_中村撮影H21・9
人工の池_水道の噴水
垂井の湧水_H21・10中村撮影
涌き水_鯉が泳いでいる
竜の姉妹を詠める一首、并せて短歌_中村憲雄
「土屋文明全歌集」の年譜に「昭和十五年六月二十二日に蒲生野踏査、北村庸夫つねお同行。」とある。
蒲生野を踏査した後、滋賀のアララギ会員北村の案内で日野を訪ねた。このことは年譜には載っていないし
歌も作っていない。
土屋文明が近江日野をなぜ訪ねたかったかということは、「日野屋清兵衛」(片山貞美編 角川書店)を読むと
その理由がよく理解できる。作品としては「続青南集」の「氷見」である。
作歌時は昭和三十九年十一月、七十四歳。左は土屋文明、土屋テル子。氷見市にて。
この写真は「土屋文明私稿」(橋本徳壽)よりのコピー。この時、「日野屋清兵衛」の歌が生まれたと思われる。
近江日野商人館
「近江日野商人天下に躍動した関東兵衛」の一部
年代、歴史事項、史料、解説が載せられている。右には「近江日野商人」「初代中井源左衛門の
「金持商人一枚起請文」があり、資料の解説がある。
「続青南集」
ここに、近江人日野屋清兵衛が詠まれ、文明の日野訪問の動機が分るのである。「歌あり人あり 土屋文明座談」
で、文明は日野屋清兵衛と土屋家との交流を語っている。日野商人がいかにその地にとけ込んでいたかがよく分かる。
「日野屋というのは。屋号です。酒屋でね、酒醤油を店で売ってて、自分ではね、生糸の・・・・・繭・
生糸の仲買いをしてた。―それで、村へもよく来たというわけですか。
ぼくのおやじも繭・生糸の仲買いをしてたから、商売仲間でね、親しくしてた。町へ出ればぼくらもよく
そこの家へ寄ったりしてた。僕を育てた伯父が酒飲みでね、そこへ寄っちゃ酒飲んでたよ。酒の小売屋だけど、
飲ましてくれたんだね。もちろん料理なんかはなかったようだがね。肴はないんだが・・・・・。
(中略)
藤岡かどっかの日野屋って大きな店があるんだそうだ。それで清兵衛さんはね、近江から来て、藤岡あたりの
日野屋の番頭をしていて、のれん分けてもらって高崎に出たわけなんだ。だから生まれは近江だ。
(中略)
いい町だね、小さい町だが・・・・・。」
文明が日野屋清兵衛の生地である日野の町を訪ねたわけがよく理解できる。日野は文明には好印象の町だった。
歌はない。
今年(平22年)七月に私は「日野屋清兵衛」を調べようと日野町立近江日野商人館を訪ねた。
近江日野商人館常設展示史料集(第三版)「近江日野商人天下に躍動した関東兵衛」をいただき、
その「はじめに」には、日野商人の歴史を科学的な根拠に基づいて研究していることが明記されてあった。
それが史料に基づいての作成されていることが分り、教材としても大いに活用できると思った。
(注)「関東兵衛」とは、近江商人のなかの日野商人の呼び名で、江戸時代には使用されていた言葉です。
(略)弥「兵衛」、与「兵衛」など多くの日野商人は江戸時代初期以来、関東地方で商い、多くの関東出店を
持ったことから「関東兵衛」と呼ばれ、その妻は「関東後家」と呼ばれてきました。」
史料集「近江日野商人天下に躍動した関東兵衛」より
満田良順館長は、私の意図を理解して、「日野屋清兵衛」が史料としてあるかどうか調査をしてみると
約束していただいた。その後、その名がないとのことだった。
しかし、文明の語る「日野屋清兵衛」での思い出談は実に生き生きとしいる。日野商人清兵衛がその地域に
溶け込んでいる様子が実にリアルに語られている。当時の文明の父、伯父がこの「日野屋清兵衛」と
親しかったことは事実である。
各種史料で、北関東に「日野屋」という屋号が多くあり、日野商人の活動を再認識したのだった。
現在のところ史料から狂歌の作者「日野屋清兵衛」は見つからないが、文明の思い出に生きる人と
いうことが言える。当時、狂歌が北関東では多くの人によって作られていた。かかる祝い歌としての
作歌はそう珍しいことではなかったと思われる。文明は、幼少期からこの狂歌を聞かされて育った。
「近江人日野屋清兵衛」の狂歌は、文明の生涯において生き続けたことは確かである。
(平成二十二年九月十一日)
2011年5月
歌の解釈の変化
天皇遊猟蒲生野時額田王作歌
土屋文明は、昭和十五年(一九四0)六月二十二日に、五月六日の大津宮址、志賀山寺址踏査のときと同様、
アララギ会員北村きたむら庸つね夫と同万ゆる木ぎ宗むね良よしとともに蒲生野を踏査した。近江八幡から蒲生野
行きの電車に乗り、あの天智てんじ天皇の遊猟の地の「蒲生野」を目指した。そこは、天智天皇七年五月五日の
御猟の場のような未墾の自然が残されている感じがしたと文明は書いている。文明の最も期待していたのは、
あの「「紫むら草さき」」との遭遇であったが、残念ながらその機会はなかった。「老蘇おいその森」「小野」
(天智天皇の学頭職鬼室集斯きしつしゅうしの墓)などを巡ったが「紫草」には出会えなかった。
文明の結論は、実地の見聞に基づいて、蒲生野は(蒲生郡)は粘土質でムラサキ栽培には不適ではないかと
いうことであった。この歌の「紫野」は、ムラサキではなくて別のことを言っているのではないかという説に
文明は傾いていった。
この中で、北村庸夫が植物学者である当地出身の滋賀県女子師範教諭橋本忠太郎教諭のことを文明に伝えている。
それによると、教諭は北村に「綿向山麓地方で一、二度、しかも一株ずつ採集したされたほか、
紫草の県内で生ずることの稀有なること」を語ったと書かれている。北村は文明の調査目的に答えるため、
橋本教諭に教えを乞うたことが想定される。これはどうやら間違いなさそうである。橋本教諭の業績については
「近江の先覚第三巻」(滋賀県教育会刊)に書かれている。「滋賀県の牧野富太郎」といわれ、「滋賀県植物誌」に、
その名がある。数年前に橋本忠太郎顕彰会が開催されたという。
先日、湖北の山麓の地に住む知人が、昨年ムラサキの栽培を試みたが、数年で消えてしまったと話をしてくれた。
私の住むところ長浜も水は豊かで、ムラサキの栽培は無理のようである。「原色世界植物図鑑」によれば
「日本、朝鮮半島、中国、アムール」に分布しているという。山地の草原にはえる多年草とある。
昔は日本の各地でムラサキははえていたという。
文明の蒲生野紀行から七十年後の現在、日本のこのムラサキは絶滅危惧種となりなっている。実際は絶滅したと
いう情報もある。この事実を文明が生きていたらどういう言葉を発するだろうか。
五月十六日、このムラサキが橋本忠太郎の採集した標本の中にあるかどうか、顕彰会の北村誓会長に確認して
もらったがないということであった。わたしも彦根図書館で「滋賀県植物誌」〔北村四郎編〕を閲覧したが
「ムラサキ」はなかった。しかし、この誌には橋本忠太郎の収集した植物はあった。
近年、古代近江の研究が発掘等で進み、「大津京跡」の輪郭等が明らかになりつつある。
これも文明の当時のその理解をはるかに越えていると思われる。「古代近江の原風景」(松浦俊和)で、
私のような門外漢には驚くようなことが書かれている。「近江人」(これは文明の言葉)としてまことに
不勉強で恥じ入るばかりである。次に引用させていただく。
大津に遷都した3年後の天智9年(670)2月上(『日本書紀』)に時に、天皇、蒲生郡の匱?野に幸して、
宮地を観はす。」という短い文章で、これは明ら かに新しい宮地を蒲生方面に探しに行ったことを示している。
この時,天皇は大津宮とは別の新しい都の造営を考えていた。
※匱?野―地名は不明、不祥
そうすると、天智7年の蒲生野の行幸は、宮地を探ることにあったことになる。こういう厳しい時代背景を
理解した上で、この相聞歌の鑑賞するのがふさわしい感じがする。ここでの天皇のこの地の評価が極めて
重要になる。ここに遷都しようという天皇の意志はあったように感じられるという。今まで、この相聞歌を、
愛の讃歌として、心ときめかして鑑賞してきた。当然ではあるが、実地に、文献をよく読み、歴史などの
研究成果を勉強して鑑賞すべきである。
土屋文明_「蒲生野」_「少安集」
「続青南集」
「続々青南集」
・あふちーせんだん・しろたへー白い色・はねつるべー石の重みで水をくむ
(平成二十三年五月十六日)
Copyright © 滋賀県歌人協会